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うどんこ

【小説】セミコロンが(あった)

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セミコロンが(あった)PDF版


 浴槽の中にミニトマトが落ちていた。とても赤いが、中の種やぐじゅぐじゅが透けるほどには熟しきっていない。かなり小ぶりに見える。寝て入ることができる浅い浴槽の中にあるためそう見えるだけで、ミニトマトとしては標準サイズなのかもしれない。内側に手すりやら滑り止めのぼこぼこやらいろいろな加工が施された浴槽に対して、ミニトマトは曲線でシンプルにできていた。説得力のあるミニトマトだった。このミニトマトが特別そうなのだろうか。普通のミニトマトも浴槽に入れられたらこういうふうになるのだろうか。
 私は浴槽の縁を跨いで中に立つ。水は張っていない。からからに乾いている。浴室の真ん中に置かれた浴槽である。浴槽の中に立つと、浴槽の底の厚さの分、目線がすこし高くなる。毎回、この微妙な高さに慣れないまま、シャワーを浴び終えることになる。
 蛇口をひねる。やたらに低いところにあるので、湯を出したり止めたりするたびにかがまなくてはならない。はじめは水が出てくる。シャワーの水をミニトマトにかけてみる。ミニトマトはころころと円を描きながら転がって浴槽の端に追いやられる。私はシャワーを持ってミニトマトを追いつめる。しゃがんで水をかける。ミニトマトは激しく揺れた。ぶぶぶぶぶ、と細かく振動していた。シャワーヘッドをミニトマトに近づけていっても振動は一定で変わらない。だんだん近づけていくと、急に、円を描いて、ミニトマトはシャワーの水から逃げた。シャワーの水は湯になっていた。
 私はシャワーを浴びた。低いところに蛇口がある関係で、しゃんと立つと頭の上までシャワーが届かない。猫背になりながら浴びた。リンスインシャンプーをして、ボディソープで体を洗った。右の足の裏を洗った後、ミニトマトの位置を確認してから足を置いた。左の足の裏のときも気をつけた。顔を洗って、髪をもう一回軽く流す。最後に全身にざっとお湯をかけたとき、なんとなく上げた足の下にミニトマトが入り込んだ。ち、と音がした。ぶち、の終わりの部分だけ、という感じの音だった。あわてて足を持ち上げる。ミニトマトはぱっくり口を開いていた。種とぐじゅぐじゅが湯の流れに乗ってそよいでいる。私はミニトマトを足で排水口の方へ押した。ミニトマトは抵抗しなかった。排水口の中の網を外すと、ミニトマトは音を立てずに消えていった。
 私は浴槽を出て、浴槽の中をシャワーでよく流した。どんなに流してもトマトの青いにおいがした。
 服を着ないまま廊下に出る。裸足でぺたぺたと歩いていく。ひんやりしない、あたりのやわらかい素材が全館の床に使われている。大きな絵と文字で、つめきり、れいぞうこ、よくしつかんそうき、そふぁーべっど、などと描かれた表札がユニットルームの入口脇に掲示されている。それがユニットと、ユニットルームの名前だ。表札には、ユニット名がつめきりならつめきりの絵、その隣にひらがなで「つめきり」と描いてある。
 ひとユニットは八人で構成されている。ユニットルームには居間がある。テレビと椅子とテーブルのある大きな部屋である。簡単なキッチンもついている。居間を中心に、右側四室、左側四室、計八人分の個室がある。ベッドとタンスがあるだけの簡素な部屋だ。
 ユニットはぜんぶで十二個ある。八人のユニットが十二個で、九十六人が暮らすことができるという計算になる。実際に使われているユニットルームは十部屋だ。
 使われていないユニットルーム「こがたれいぞうこ」に私は入っていく。
 入ってすぐのところにあるキッチンのシンクはぴかぴかだ。居間に置かれたテーブルや椅子からは消毒済みの清潔なにおいがする。段差はひとつもない。居間を通り過ぎ、いちばん奥の個室のドアを開ける。ドアは引き戸で、大きな手すりがついており、弱い力でも開くようになっている。個室の中に入って引き戸を閉める。ぴんとシーツの張られたベッドに私は腰掛ける。ベッドの下のスポーツメーカー製のボストンバッグを引き出して、中から着替えを取り出す。白いTシャツを着て、黒いパンツ、綿のズボンを履く。布団をかけずに眠る。
 どんな車でも、大きいのでも、小さいのでも、バイクでもなんでも運転できる免許を持ってるから、と声が聞こえた。
 私は目を覚ました。外が薄暗い。早朝かもしれないし、夕方かもしれなかった。動かないままでしばらく待つとだんだん暗くなっていった。夕方だった。
 起き上がり、ベッドの下のボストンバッグを取り出してななめがけに背負った。個室から出てドアを閉め、ユニットルーム「こがたれいぞうこ」からも出る。
 廊下では車椅子の年寄りたちが、どこへ行くでもなく、ただちょっと進んでは方向転換、そして戻る、また進む、を繰り返している。何台もの車椅子がそれぞれの好きなように行ったり来たりしているのだが、不思議とぶつかることはない。それぞれがどう動くかを毎日の暮らしの中で互いに把握しているのだろう。
 私は車椅子たちがどう動くかを予想して、ぶつからないよう進んでいく。しかし、どんなに慎重に歩いても、前を急に車椅子が横切ったり、後ろからぶつかられそうになったりする。おろおろすればするほど車椅子とのニアミスは増える。それぞれの車椅子の動きのパターンを把握すればよいのだが、分析は面倒だ。対策として私は、こんにちは、とあいさつしながら歩く。こんにちは、と言うと車椅子のじいさんばあさんは、軽く頭を下げたり、私を見上げたり、無視したりする。反応や、反応しないという反応をする。そうすると道ができる。廊下のど真ん中を歩いていってもあいさつさえすれば車椅子に阻まれることはない。こんにちは、こんにちは、と私は言いながら歩いた。
 玄関ホールではじいさんばあさんが食事をとっていた。ひとりが煮物かなにかの入った器を床にたたき落とした。プラスチックの容器は床にぶつかってもほとんど音がしない。うす青い服を着た若い職員がたたき落とすところを見ていたらしく、駆け寄って、せっせと煮物を拾い集めた。ときどき誰かがひとりごとを言うと、つられて何人かがひとりごとを言いはじめる。音程もリズムも揃わない合唱はいつの間にか終わる。また誰かがひとりごとを言うと合唱になる。
 揚子江がうまい、とひとりが言った。飛び抜けて大きな声だったのでそれに続いての合唱は起こらなかった。
 食事しているじいさんばあさんや職員の方に向かって、こんにちは、と言った。背後から、廊下を行ったり来たりしている車椅子のじいさんの、こんにちは、が聞こえた。
 靴箱からサンダルを出して履く。開くボタンをさわって自動ドアを開ける。振り返ると歩行器のばあさんがものすごい速さでこちらへ向かってきていた。職員がばあさんをつかまえたのを見とどけてから、私は玄関を出た。
 芝生が広がっている。かなりの面積がある。芝生のど真ん中、まっすぐに、コンクリートで道が作ってある。コンクリートの道の脇には駐車スペースもある。芝生を越えると住宅地だ。一軒家がひたすらずらっと並んでいる、まごうことなき住宅地だ。家々の間をしばらく歩くと、大きな道路に突き当たる。車がさかんに行き交う道路だ。なんとか線という名前らしいが、何度聞いても覚えられない。道路沿いには私鉄の駅もある。二十四時間開いているスーパーとサウナがある。きつい色調の看板があちこちに見られる。
 チェーン店の焼肉屋と、チェーン店かどうかはわからないけれどまあだいたいどれも似た感じであろうインド料理屋に挟まれて、ひっそり、欅材でできた下り階段がある。照明が仕込んであるらしく、一段一段が落ち着いた青紫色に光っている。階段脇の譜面台のようなものに、文字のやたらに小さいメニュー表が置いてある。顔を寄せてメニューを読めば、なんとかそこが飲食店なのだとわかる。店名を示す看板は出ていない。けれど、そこまで高級な店ではない。
 私は青紫色の階段を下りていく。私のものとは思えないくらい上品な足音が鳴る。すぐに重厚な木のドアが見えてくる。ドアの横には、ワインの瓶がたくさん積まれている。
階段を下りおえたちょうどのタイミングでドアが開く。中から出てくるのは、ぴしっとした白シャツに黒いベスト、黒いズボン姿のじいさんだ。
「いらっしゃいませ」
 じいさんは折り目正しいお辞儀をする。
「こんにちは」
「ご予約は」
「していないのですが」
 私が言うと、じいさんは、ええ、ええ、大丈夫ですとも、ご安心ください、という意味がこもっているであろうにっこりをした。
「どうぞ」
 重厚な木のドアの先にもうひとつドアがある。窓のついたドアだ。じいさんは窓のついたドアを開ける。広いホールだ。すぐ右手にウエイティングスペースがある。ウエイティングスペースには、フロアライトと、十人ほどが座ることのできるようなソファーセットが置かれている。ウエイティングスペースの向かい、私たちから見て正面に、バーカウンターがある。バーカウンターとウエイティングスペースの右奥は客席で、そのさらに奥にキッチンがある。客席は百席、いや、百五十席くらいはあるかもしれない。
いらっしゃいませ、があちこちから飛んでくる。私は会釈を返さない。
 じいさんはホール担当に目で合図する。ホール担当は私に軽く挨拶をして、案内を引き継ぐ。ホール担当は客席の真ん中を進んでゆき、壁を背にした席はどうかと私に尋ねる。私はうなずく。椅子を引いてもらって座る。席と席の間隔はかなり狭い。ぎゅっと百五十席だ。七割程度の混み具合だが、声が反響するのでとても騒がしい。
 私は椅子を引き直す。色こそ落ち着いたブラウンであるが、観光地のソフトクリーム屋の外に並べてあるような、プラスチック製の軽い椅子である。
 若い給仕に目で合図する。給仕は軽くうなずいて、あちこちの椅子にぶつかりながら、こちらへとんでくる。名札にyamashitaと書いてあるのを見て、いつもの給仕だ、と思った。
「トマトソースのパスタ、あと焼き野菜を」
「トマトソースのパスタは、本日アマトリチャーナとブッタネスカがございます」
「アマトリチャーナは」
「はい」
yamashitaはにっこりして解説する。
「豚肉を塩漬けにしたものと、チーズを使っております。ブッタネスカはオリーブやアンチョビの入ったすこし辛いものです」
「ブッタネスカで」
 私は答える。
「かしこまりました、ブッタネスカと、焼き野菜」
「はい」
「ブッタネスカのソースは多めにいたしますか」
「多めで」
「かしこまりました」
 yamashitaはすらすらとメモをとる。書いていないんじゃないかというくらいすらすらと書くので笑ってしまった。柿の種のようにあごがとがっていて、目が大きくらんらんと光っていることがyamashitaを若く見せていた。実際に若いのかもしれなかった。見た目だけでいうと、十代のようだった。
「少々お待ちくださいませ」
 yamashitaは稲妻のように立ち去り、椅子にぶつかりながらまたやってきた。グラスをテーブルの端に何度も場所を調整しながら置いて、緑のボトルで水を注いでいく。あんまりにも高いところから、勢いよく注ぎすぎているのだが、一滴もこぼれることはない。なみなみに注ぎおわったと思ったらもういなかった。
 一息つく間もなく焼き野菜がくる。まったいらの皿に、炭火で焼き付けた野菜が盛られている。芯のついたキャベツ、人参、かぶのようなものなどである。味付けは塩胡椒だ。キャベツの芯を外して食べ進め、最後に残った芯を結局は食べる。
 食べ終わった頃合いでブッタネスカがくる。白い深皿にトマトのソースがたっぷり入っている。麺が遠慮がちに、ちょっとだけ頭を見せている。私はブッタネスカの深皿を、焼き野菜のまったいらの皿の上にいったん乗せる。足下に置いたボストンバッグのチャックを開ける。椅子やテーブルの脚にぶつからないよう気をつけて、腕をくねらせながら、プリントゴッコを取り出す。プリントゴッコとは、年賀状などを、版画の要領で刷る機械だ。このプリントゴッコは何度も修繕し、また改造をめちゃめちゃに加えてある。ほとんどもとのパーツが使われていない。ほとんどというのも、ねじが一本くらい同じであろうか、くらいのほとんどである。ひょっとしたらぜんぶ変わって別のものになってしまっているかもしれない。もはやプリントゴッコではなくなったプリントゴッコを、私は使っている。
 テーブルの上にプリントゴッコを置く。とても分厚い旧型のノートパソコンのような見た目である。ノートパソコンのように横長ではなく縦に長い。また、電球が三つ付いていることも、ノートパソコンと私のプリントゴッコの違いである。プリントゴッコは、私のプリントゴッコはということだが、二つ折りである。ほんとうのプリントゴッコがいくつ折りだったかもう思い出すことができない。ぱかっと大きくふたを開く。わにの口でたとえると上あごの部分に、引き抜いて取り外せるパーツがある。上あごを薄く切り出したようなものである。取り外し可能な上あごのスライスには、一面に布がはってある。プリントゴッコ本体のふたをいったん閉じて、プリントゴッコ本体に上あごのスライスを乗せる。
 トマトソース、ついトマトソースと呼んでしまうが、正確にはブッタネスカのソースに人差し指をひたして持ち上げる。上あごのスライスの布にソースをさっと塗りつける。ちょっと首を遠ざけて具合を見て、もう一度指をひたして塗る。よさそうだ。布につけたソースを紙ナプキンでふき取る。布は軽い耐水性があって、塗ったソースすべてを吸い込むことはない。かといってばちばちはじいてしまうわけでもない。
 本番だ。爪の先にトマトソースをつけて細い線を描く。昔読んだ児童書の表紙を思い出す。女の子の絵が使われていた。その輪郭はどうだったか、ぐるっと囲むとどんな形になるのかを思い出す。思い出したとおりに線をひいた。胡椒か、オリーブのほどけたものかはわからないが、黒い小さなかけらがいい位置にきた。トマトソースを継ぎ足しながらぐるりと一周描きあげる。次に、中学校の準備室にあった、巻物のような、広げるとスクリーンになる機械、機械というか道具のことを思い出す。輪郭を頭に浮かべながら線をひく。児童書の表紙の女の子の輪郭とスクリーンになる道具の輪郭は一部重なるようにする。みっつめよっつめと輪郭を描いていくとき、お誕生日会で作る折り紙の輪をつなげたもののように、前の輪郭と次の輪郭はどこかで重なる部分があるように描いていく。
 それぞれの輪郭の大きさは、輪郭をとったものそのものの大きさに比例しない。ものとしては、スクリーンになる道具の方が、児童書の表紙の女の子より大きいことは明らかだ。けれどプリントゴッコの布の上では、児童書の表紙の女の子の輪郭の方がスクリーンになる道具の輪郭より大きい。
 いくつもの輪郭が連なったものが布の上に描き上がる。私は布の張ってあるパーツをプリントゴッコ本体にはめて戻した。ぱかっと上下に開いた状態のプリントゴッコのあいだに平たい皿を置く。位置を調整する。だいたいこのくらいだろうという位置が決まったら、上蓋部分を一気に下ろし、皿をプリントゴッコでぎゅっと挟み込む。
 むき出しの電球を強くフラッシュさせる。あたりが一瞬真っ白になる。フラッシュは終わっているのに目の前がちかちかする。それはしばらく続く。ほんの短いあいだ周りの席のおしゃべりの音量が小さくなり、すぐに元の騒がしさに戻った。私はそうっとプリントゴッコの蓋を開ける。私の描いたトマトソースが、左右逆になって、皿の上にうつっていた。
 皿にうつった輪郭のひとつひとつは、知っているもの、たとえば児童書の表紙の女の子、の輪郭である。女の子の輪郭は反転されて意味を失っている。また、押しつける力のかけ方によるものか、ただ私の描いたものをコピーしたのではない、なぞったのではない、微妙な強弱のある線が生まれている。
 私は立ち上がってテーブルのあいだを縫うように歩き、客席を通り過ぎた。席で背にしていたのとは反対側の壁に、ワインボトルの入った箱が置いてある。箱をよけると階段が現れる。私は階段を下りた。螺旋階段だ。階段はパイン材でできていて、外壁は白い。はじめの段は大人がふたり余裕を持って立てるくらいの横幅があるが、徐々に狭まっていく。すり鉢のように、下に行くほど階段の外側の壁がきゅうっと窄まっていく形になる。螺旋の真ん中部分から下の方をのぞき込むと、いくつか下の段までは見通せるが、一番下まではわからない。きれいに真下へ落ちる螺旋ではなく、すこし湾曲しているのかもしれない。
 だんだん、階段の奥行きと横幅が狭くなってくる。私はかに歩きで進む。足の横幅くらい、それでもはみ出すくらいにしか段の奥行きがない。段の横幅も、私の足がなんとか収まるくらいである。三十センチよりもう少し短いだろう。
 段の横幅が狭くなった分、壁も迫ってきている。上半身を、内側の手すりの方へえび反りにして、少しずつ進んでいく。川の生き物を捕まえる罠みたいだなと私は思う。入口はとても広くて、奥に行くにつれだんだん狭くなっていく。やっと抜けたと思ったら行き止まりで、入口の方に向かって頭を通すには細すぎ、流れも邪魔をして、もう引き返すことはできない、という罠である。階段から私はすぽんと抜け出した。
 抜け出すと通路である。細い道が弧を描いている。壁が部屋の中央方向へ張り出しているため、目指す先は見えない。道の外側はがくんと一メートルくらい下がっていて、道に沿って水が張ってある。そこそこの深さがある。三十センチ、四十センチ、もう少し深いかもしれない。コンクリートは水の張ってある部分だけ青く塗られている。細い通路も壁も真っ白い。水底からさらに五十センチほど下がったところが広いフロアで、客席になっている。床は上の階と同じ木目調で、椅子やテーブルも上の階とおそらく同じものだ。百席ほどの客席が、絞ったライトで静かに照らされている。客も給仕も誰もいない。通路に立っている私だけがここにはいる。
 静かに歩き始める。道は先ほどの階段同様とても細い。また、かに歩きをしていくことになるのだが、体の向きがむずかしい。壁には手すりがついていない。壁の方を向くと背中がすかすかするし、壁を背にすると水面が私の落ちるのを待ちかまえているように思える。どうするか考えて、私は壁を背にして、かに歩き、かつ摺り足で歩を進めた。落ちても大したけがはしない高さであることはわかっている。それでも、下手な落ち方をすれば、足の骨くらいは折れかねない。私は慎重に進む。水面がだんだん近く見えてくるような気がする。気のせいではなく、壁がどんどん私を斜めに水面の方へ押しているのだ。まっすぐだった壁に、通る者を水の方へ押し出すような傾斜がついている。傾斜を目で確かめようとしても、道はカーブしていて、よくわからない。確かめる余裕もない。私は体の向きを変えようかと一瞬考える。水の方を向いているからつらいのだ。壁の方を向いて、壁を抱きしめるようにすれば、壁はこわくないのではないか。そしてすぐに諦める。壁にはつかまるところがない。手すりもでっぱりもなにもない。だから抱いてもつかみようがない。圧迫感だけがある。背中には水と落下の恐怖がある。ダブルの怖さに晒されることになる。それはいけない。それならば断然壁を背にしていた方がいい。壁にぴったりとくっついているということだけは揺るがないからである。そうだろうか? どちらでも変わらないということも考えられる。変わらないならそのままの方がいい。姿勢を変えた方が楽だろうか。姿勢を変えるときに、脚さばきをすこしでも失敗したら、落下してしまう。ではこのままがいい。だけれど壁は押してきている。つらい。体のいろいろなところがじんじんと痛い。もうだめだを三百回くらい繰り返したとき左手がドアに触れた。手探りでドアノブを探す。回しながらぐっと押し込む。足をドアの向こうに少しずつ入れていく。私はトイレの中に入ることができた。ドアを閉めて鍵をかけて用を足す。終わると備え付けの水道で手を洗う。せっけんで洗う。流す。ペーパータオルで手を拭いて捨てる。トイレを出て通路を戻り、階段も戻って、ワインの入っていた箱を元の場所に移動させ、椅子のあいだを縫って自席についた。
 皿がすべて下げられていた。あれ、と思っているとオールバックの店員がやってきた。椅子にひとつもぶつかることなくするりと近づいてきた。身長がかなり高く、筋肉質で、黒いベストを見事に着こなしている。
「ちょっとよろしいですか」
「はい」
「こちらへ」
 オールバックは音を立てずに歩いて、客席を抜け、キッチンの方へ私を案内した。給仕たちがさっと道をあけ、軽く一礼した。私も頭を下げた。私にではなくオールバックに下げたのだなと通り過ぎてから気がついた。
 スタッフルームの扉を開けると怒鳴り声が聞こえた。通路を進むと簡素なテーブルと椅子が置いてあった。禿頭の首が異様に短いスーツ姿のじいさんが、向かいに座っているyamashitaに向かって怒鳴りちらしていた。禿頭の隣に座ったばあさんは妻らしい。じいさんを、それは叱りすぎであると制していた。しかし完全に止めはしなかった。ばあさんもすこしは怒っているのだろう。
 オールバックはじいさんばあさんに声をかけなかった。禿頭は怒鳴っていてこちらに気がつかなかったが、yamashitaがふと私とオールバックの方を向いた。yamashitaはぱっと笑顔になった。
「お客様」
 yamashitaは私に言った。
「お客様」とオールバックが禿頭へ言った。「恐れ入りますが、事態につきまして、もう一度説明を行ってもよろしいでしょうか」
「この人なの?」
 禿頭は私をあごでさして言った。
「そうでございます」
「いいよ、わたしも思ったことは言うけれどね」
「ありがとうございます」
 オールバックは深々と頭を下げた。私はつられてほんのすこしだけお辞儀した。オールバックがyamashitaに話をするよううながす。yamashitaはうなずいて話し始めた。
「こちらのお客様は」
 yamashitaが私を揃えた指の先で指し示す。禿頭がちらりと私を見てすぐyamashitaに目を戻した。
「とても素敵なものをお作りになります」
「ほう」
 禿頭は足を組み替えようとして、膝をテーブルに強くぶつけた。膝蹴りだったのかもしれない。
「お客様はトマトソースとお皿をお使いになります」
 yamashitaは言う。
「パスタを召し上がることはなさいません、あくまで、トマトソース、をお使いになります」
「ちょっと」
「はい」
 オールバックに言われてyamashitaが顔を上げる。
「簡潔に」
「わかりました」
yamashitaは禿頭の方へ向き直り、続ける。
「トマトソースで素敵な作品をお作りになるのです、それで、わたくしはそれをとても、いいなあ、と、いいなあということばで単純に言い表せるようなものではないのですが、しかし、いいなあ、と思いました」
 yamashitaは鼻から長く息をはいた。禿頭もその奥さんもオールバックも私も黙っていた。yamashitaは鼻から大きく息を吸った。鼻から長くはいた。そして再び口を開いた。
「ですので、こちらのお客様に」
 yamashitaは禿頭を小さく手で示す。
「提供した」
 オールバックが口を挟む。
「そうです」
 yamashitaははにかんで笑う。オールバックは腕を組んで戻した。
「喜んでくださると思って」
 yamashitaは言った。
「他のお客様の食べかけを、喜んで受け取ると思った?」
「食べさしではないです、先ほども申し上げましたが、パスタを召し上がることはございません」
「食べかけでないとしても」
オールバックは言って、続ける。
「一度お客様に提供したものを、また違うお客様に提供してはならない」
「提供したものはトマトソースのパスタです。ブッタネスカです。それをそのまま他のお客様にお出ししたわけではありません」
「何度もお伺いすることになり大変申し訳ございません」
 とオールバックは禿頭に言って、yamashitaの隣に移動した。
「お客様から、お話をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
 禿頭はうなずいた。
「わたしはね」
禿頭は組んだ足を元に戻し、体を前のめりにして、yamashitaを指さした。
「この人が、何を言ってるのかわからない」
「とおっしゃいますと」
「いきなり、汚い皿を持ってきて、おめでとうございます、とこいつは言った」
「拍手もしていらっしゃいました」
 奥さんが付け加える。
「汚くありません」
 yamashitaが言う。
「ちょっと」
 オールバックはyamashitaを手で制する。
「なにがおめでとうなのかもわからない」
「誕生日でも記念日でもありません」
 禿頭と奥さんが続けて言う。
「お祝いしなきゃと思ったんです」
「おい」
 オールバックがyamashitaの肩を叩いて黙らせようとする。
「こんなに、いいものがあって、だから、お祝いが必要だった」
「ちょっと」
「お祝いはなにかあるときにしかしちゃだめですかね? 日常的な祝祭って必要じゃないですか。日常的な祝祭。日常的な祝祭にぴったりのすばらしいものを、ぼくは、提供させていただきました」
「なにを言ってるのかわからない」
 禿頭は呆れているようだった。
「大変申し訳ございませんでした」
オールバックは深々と頭を下げた。長く下げ続けた。ぴくりとも動かないので、禿頭と奥さんが心配げにオールバックを見た。禿頭がオールバックの方へゆっくり手を伸ばし、もういいと止めようとしたときに、オールバックはがばっと頭を起こした。
「こちらの者は本日で退職させます。また、お客様も」
 オールバックは私の方を向いた。
「お客様も、本日より、ご来店いただくことをご遠慮ください。ご来店なさらないでください」
 yamashitaを立たせて、オールバックはもう一度頭を下げた。yamashitaも頭を下げたが、オールバックはyamashitaの頭をつかんで、机に額がつきそうなくらい深くお辞儀させた。そのまま一分ほどが経過した。ふたりはがばっと顔を上げた。
 オールバックがyamashitaになにか言った。yamashitaは奥の扉へ消えていき、財布と携帯電話を入れたらそれだけでいっぱいになりそうな斜めがけ鞄を持ってやってきた。それを見届けるとオールバックは椅子に座り、禿頭と奥さんと話し始めた。私とyamashitaはじっと立っていたが、あ、もう帰っていいのだ、と気がついて、部屋を後にした。店の入口にいたじいさんが私のボストンバッグを持ってスタッフルームの前にいた。会計はしなくてよいとのことだったので、私とyamashitaは連れだって店を出た。
 幹線道路には車がひっきりなしに走っていた。車の音と、飲み屋の入口に集まっている若者の声がうるさかった。私は道を曲がって、住宅の立ち並んでいる方へ入っていった。yamashitaは後ろをついてきた。
「こっちに来るの、はじめてです」
 yamashitaは言う。
「そうなんだ」
「はい、でも静かでいいですね」
 やたらに広い芝生が見えてくる。真ん中にまっすぐ通っているコンクリートの道を進んでいく。自動ドアの前に立っても、開けるボタンを押しても、ドアが開くことはない。私は開けるボタンに手をかけて、横に引いた。かなりの力が必要である。足を広げて、思いっきり引く。ボタンは頑丈にできていて、とれたり欠けたりすることはない。ないのだとわかっていても、ぶちっとちぎれてしまわないか心配になる。ドアが開いてきて、手が入るくらいの隙間ができると、ボタンから手を離す。ドアを直接つかんでぐーっと開ける。両手を使うことができるから力が入りやすい。人ひとりが通ることができる幅まで開いたところで、私は中へ入った。yamashitaが続いて入ってくる。内側の開けるボタンを押すとドアは自動で閉まった。閉める機能だけが生かしてあるのである。
 誰もいないしいんとした玄関ホールを横目に、ユニットルーム「こがたれいぞうこ」まで私は歩いていく。「こがたれいぞうこ」に入ろうとして、振り返ると、yamashitaは向かいの空きユニットルーム「かしつじょしつけんようき」に入っていくところだった。「こがたれいぞうこ」のキッチンと居間を過ぎ、いちばん奥の部屋の引き戸を私は開ける。清潔なにおいがする。シーツがぴんと張られている。
 ボストンバッグをベッドの下に入れて、ベッドに座り、足を伸ばして軽くマッサージしていると、個室のドアがノックされた。私は息を潜めた。二度目のノックがされる。しばらく時間をあけて三回目が鳴った。
「あのう」
 yamashitaの声だった。
「お風呂ってありますか?」
 私はベッドから立ち上がり、引き戸のところまで行って、ドアをがらっと開け、
「あるよ」
 と言った。
 yamashitaと私は連れだって風呂場へ向かった。
「あ」
 私は立ち止まる。
「ちょっと待って」
 リネン室まで私は走った。山のように積んであるところから、バスタオルとフェイスタオルを二組とって、廊下できょとんと立っているyamashitaのところへ戻ってきた。
「わ、ありがとうございます」
「ふだん使わないから、気がつかなくて」
「使わない?」
 yamashitaは不思議そうな顔をする。
「手で、ばーっと水分をこすりおとしてから、あがる」
「それで水気とれます?」
「とれる」
「やってみたいです、それ」
「え」
「やってみたいです」
「ほんと?」
「なので、タオルは」
 申し訳なさそうにyamashitaは言う。
「いらない」
 語尾を私が引き取った。
 私はリネン室にタオルを持って走る。タオルを棚の元の場所に戻し、走ってリネン室を出て、yamashitaのところまで戻ってくる。
「すいません」
「いや、大丈夫」
 浴室のドアを開けた。二十畳くらいある部屋の真ん中に浴槽がひとつ置かれている。洗い場もなにもない。床の素材は廊下の床とほとんど変わらない。色だけが若干違う。私は浴室に入ってすぐのところで服を脱ぐ。yamashitaも脱いだ。私は脱いだ服をぎゅっと寄せて山にしたが、yamashitaはそのまま放り出した。
 連れだって浴槽へと向かう。先に浴槽の中に入ろうと足を上げた。浴槽の中にはミニトマトがあった。動きを止めずそのまま浴槽のふちを跨ぎ越して、中に立った。yamashitaは軽くジャンプするように浴槽に入ってきた。ミニトマトは揺れたが同じ場所にあった。浴槽の底は乾いていた。
 私はシャワーをyamashitaに渡そうとした。びん、とシャワーホースが伸び止まってyamashitaの手に届かなかった。私とyamashitaは苦笑いをした。yamashitaが私の方に近づいて、かがみ、シャワーの湯を浴びはじめた。もうひとつのシャワーを私は引っ張ってくる。yamashitaと尻がくっつきそうだったので、離れようとするが、シャワーホースの長さがそれを許さない。私もyamashitaもまず頭から洗いはじめた。時折互いの尻が、ぴとっと貼りつく。肌と肌は、ぶつかり合うものではない。軽く貼りつくような感じがある。自分の内もも同士をくっつけたときよりも、ほんの一瞬触れるだけの私とyamashitaの尻の方がよく貼りつくのが不思議だ。
 yamashitaは、かがんで髪を流して、シャワーのお湯を出したまましゃんと立った。足の開き方を調整する。私はyamashitaの足下を転がるミニトマトを見る。かかとのあたりからつま先に向かってころころと危なげなく転がっていく。yamashitaはミニトマトを見ない。足が持ち上がる。足の裏をミニトマトが通過する。ちょうどミニトマトが通り過ぎたタイミングでyamashitaは足をつく。
 私はまだ髪を洗っている。yamashitaは置いてあったスポンジをとって、顔も洗えるボディソープを三プッシュ分スポンジに乗せる。多いな、と私は思う。シャワーの湯をスポンジにちょっとかけて、しゅこしゅこしゅこしゅことyamashitaはスポンジを揉んでいく。しゅこしゅこしゅこしゅこが、頭を流すシャワーの湯の音よりも私の頭に響く。yamashitaはずっとしゅこしゅこを続けている。私はyamashitaの握っているスポンジを見る。穴ぼこだらけの黄色いスポンジだ。yamashitaは規則的に手を動かし続けている。私は髪を流していることを忘れてyamashitaの手、それから、手の中のスポンジを見ている。足の裏に違和感があった。私はミニトマトを踏みつぶしていた。yamashitaの足の周りをミニトマトは回っているに違いない。けれど私の足の下でミニトマトは潰れていた。スポンジはしゅこしゅこしゅこしゅこ鳴り続けている。
 体を流し終えるとyamashitaは浴槽を出た。
「あ」
 私は思わず声を上げた。
「えっ」
 yamashitaは振り返る。
「水、切らないと」
「あ、そうか」
 あわてたyamashitaが浴槽に戻ってくる。yamashitaは、頭の上に手で輪を作り、すぼめて、体の下へ向けて移動させていった。胴体と足が終わると腕をやる。水を切りたい方と反対の手でつくった輪で、水気を下に押し出していく。
 yamashitaは私を見る。少し自慢げな感じがある。私は黙って、手のひらで腕や体をぱっぱっと撫でて水分を落としはじめる。
「えっ」
 yamashitaは再び言った。
「なに?」
 私は聞く。
「それ、水切れます?」
「切れるけど」
「うそだぁ」
「いや、切れる」
「ええ」
「切れてるよ」
 私が言うと、疑わしそうにyamashitaは私の方に手を伸ばしてくる。腕にやわらかく触れた。ぴたっと私の腕に手のひらをつける。遠慮なくごしごしとこする。
「ほんとだ」
「でしょ」
「切れてます」
 yamashitaは私の腕に手をつけたまま、私の体をじろじろと見る。私はだんだん恥ずかしくなってきて、
「ぱっと水をはじきとばしながら乾かすわけ」
 と聞かれてもいないことを答えた。yamashitaはうんうんとうなずいていた。手を離してくれないので私は浴槽を出た。yamashitaは私の横に並んで、内股気味に浴槽の縁を越えた。
 脱いだ服を小脇に抱えて私とyamashitaは廊下を歩いた。適当にすくって丸めた服は、少しずつゆるんでいったけれど、こぼれてしまうことはなかった。じゃ、と軽くあいさつをして、私は「こがたれいぞうこ」、yamashitaは「かしつじょしつけんようき」に入っていった。個室のドアを開けるとき、服がぐずっと崩壊して床に落ちた。拾い集めても拾い集めても崩壊するので、着ることにした。日中着ていた洋服で、しわ一つないシーツに横になると、気持ちいい罪悪感があった。
 歌が聞こえてきた。
 聞いたことのあるメロディが歌詞を変えて替え歌にされているようだった。歌詞は聞き取れない。何曲も継ぎ合わせてメドレーになっている。ポンチャックのようだが、あそこまで軽やかではなく、全体のトーンとしては演歌、でもこぶしがまったくきいていない。渋い声なのだがときどきぴこぴこした電子音が入ってくる。力のない手拍子が聞こえてくる。私はボストンバッグを斜めがけに背負って、個室を、「こがたれいぞうこ」を出た。
 廊下にいつもうろついている車椅子のじいさんばあさんがひとりもいなかった。玄関ホールからはみだすくらいに車椅子が停められていた。みんな拍子にあわせて手を打っていた。拍子は揃っていなかった。ばらばらにぱらぱらと手をたたいているようだった。スピーカーから流れる音楽は年寄りの手拍子に関係なく続いている。カラオケのように、曲をスピーカーから流して、歌手が生で、マイクを使って歌っているようだ。ときどきハウリングを起こすところが微笑ましい。
 私は歌の聞こえてくる、玄関ホールの方へ歩いた。曲が大げさに盛り上がりを見せて、止んだ。じいさんばあさんが拍手をした。キングオクラ、とひとりが呼びかける。キングオクラ、キングオクラ、と次々に声がする。キングオクラの顔を見ようと私は歩みを速める。うす青い服を着た職員に連れられて和服の人がやってくる。紋付き袴で、しっかり化粧をしていた。唇に紅が引かれていた。あまり印象に残る顔立ちではなかったので、すれ違ったとたん、私はキングオクラがどんな顔だったかを忘れてしまった。
 開くボタンをさわって自動ドアを開ける。歩行器のばあさんが駆け寄ってくる。職員の人が捕まえたのを確認して私は外へ出た。
 電車に乗って乗り換えて、また電車に乗った。駅を出るとさびれた商店街だった。ところどころに若い人のやっているのであろうしゃれたパン屋や、気のきいているんだかきいていないんだか、こだわっているんだかこだわっていないんだかわからない喫茶店があった。
 私はどんどん北へ向かう。七分ほど直進して左へ曲がり、すぐ右に曲がって、また北へ進む。門が見えてくる。これはまだ入口にすぎない。それからさらに三分ほど歩くと大きな建物が並んでいる。中庭には花壇と噴水があり、花壇の周りのブロックに学生が何人も座っている。私は事務室に向かった。
 ふつうの教室のひとつが事務室として指定されている。ドアに、ワードでやたらに大きいサイズの文字を打ち込んだだけで簡単に作った張り紙がしてある。ドアを開けると大きな教室だ。細長い備え付けの机と、机にくっついたぱたんと折り畳める椅子が何十列も続いている。前の方に事務担当の職員が何人かおり、ひとりが顔を上げこちらを見た。遅れて全員がこちらを向いた。
「どうされました?」
 職員のひとりがかつかつと足音を立てながら私に近づいてくる。パンツスーツ姿で、首から職員証のようなものを下げている。
「受験票を忘れました」
 私は答える。
「受験番号は覚えていらっしゃいますか?」
「いえ」
「そうですか、少しお待ちください」
 職員は走って職員たちの輪に戻っていく。パソコンを使っていた禿頭に職員が耳打ちする。禿頭は首を傾げた。しばらく傾げたままでいた。職員は体の前で手を組んでじっと待っていた。禿頭が首を戻して、職員にひとこと言った。職員はうなずいて私のところへ駆けてくる。
「お名前は」
「山下です」
「わかりました」
 職員は禿頭のところへ戻って耳打ちする。禿頭はこんどは首を傾げずに、かたかたとパソコンに入力をした。教卓の上に置いてあったプリンターが動きはじめてすぐに止まる。職員は印刷されたものを確認し、禿頭のところに印刷されたものを持っていって、画面と照合した。禿頭がうなずいたのを確認すると、私のところへ職員は走ってきた。
「受験票です」
「ありがとうございます」
 私は一礼して事務室を出た。向かいの柱に貼ってある教室一覧を見て、受験票も見る。すべての番号が載っているのではなく、何番から何番まではどの教室、と書いてある形式なので、私の番号がどれとどれの間なのかを考える必要があった。それほど難しい作業ではなかった。階段を上って、それぞれの入口に貼ってある、ワードで作った何番から何番までと書いてある紙を見ながら歩いていった。自分の番号の該当する場所を見つけたが、念のためもう一度確認する。自分の番号はこの番号とこの番号に挟まれた番号である。教室に入る。ほとんどがもう着席していた。私以外全員が制服を着ていた。ブレザーだったりセーラーだったり学ランだったりしたけれども、全員制服だった。私だけがやたらに大きな荷物を抱えていて、ラフな格好だった。自分の番号の書いてある席に着席する。両隣に軽く会釈する。どちらの席の人も私の方を見なかった。みな暗記帳を繰っている。私は暗記帳を持っていないので、ただまっすぐ前を向いて座っていた。
 すぐにチャイムが鳴った。これはまだ予鈴である。試験官が入ってくる。先ほどのパンツスーツの職員だった。職員が決まりごとを、試験官の説明するべき事項が書いてある用紙のとおり読み上げる。合図があるまで問題用紙をめくってはいけない、携帯電話は電源を切ること、マナーモードも不可、なにかあったら挙手で知らせること。試験官は用紙を裏返したが、裏にはなにも書いておらず、また元に戻した。指で文章をたどっていく。説明し逃したことがないかを念入りに確認している。
 では、解答用紙を配布します、と試験官は言った。教室の両端に待機していた係員がすばやくそれぞれの机に紙を配っていく。配っていくというよりは乗せていっている。一度用紙をふわっとさせてから、そっと机の上に乗せる。丁寧に、かつ手ばやくすべての席を回っていった。
 係員が私の目の前に用紙を乗せる。次の用紙をつまんで通り過ぎようとした係員の足が止まる。
「筆記具は」係員は私の耳元で言う。「ありますか」
 私はうなずいて答える。
「許可しますので、いま、鞄から出してください」
 後ろの机に乗せる用紙をしゅっと引き出して係員は通り過ぎていった。
 私はボストンバッグを開く。プリントゴッコを取り出して机の上に置く。隣の席の受験生がプリントゴッコを、次いで私をいぶかしげに見た。私は隣の席の受験生を見た。隣の席の受験生は目をそらした。私はプリントゴッコの位置を微調整した。机の奥行きが足りなくてプリントゴッコがすこしはみだしてしまい、不安定だ。何度かわにの口のようにプリントゴッコを開いたり閉じたりしてみる。安定しているわけではないが、使えないというわけでもなさそうだ。
 次に、問題用紙を配ります、解答用紙も問題用紙も、よし、と言うまでは、表にしないでください、と職員が言った。
 解答用紙の隣に問題用紙がふわりと置かれていった。すばやく配布していった係員は、私の席まで来て、足を止めた。プリントゴッコを設置したために問題用紙と解答用紙を並べておくだけの余地が机になかったのである。係員はかなり悩んだ様子で、解答用紙の上に問題用紙を乗せた。
 よし、と試験官が言った。いっせいに用紙がめくられる。すぐに鉛筆の音があちこちから響きはじめる。私も問題用紙、解答用紙をそれぞれめくった。解答用紙は記述式で、マーク式ではなかった。
 問題を一通り読んでから、私は静かに手を挙げた。職員が走ってくる。
「どうしました?」
 職員は硬い表情で聞いてくる。
「描くものがありません」
「先ほど係員が確認したと思うのですが」
「ありません」
 私は職員の目を見て言う。
「お貸しします。鉛筆を、たとえば二本、それから消しゴムをふたつ、これでよろしいですか」
「トマトソースを貸してください」
「少々お待ちください」
 職員は教卓に戻り、資料をぱらぱらと繰って、係員のひとりを手招きして呼び寄せた。やってきた係員に職員は耳打ちする。係員は教室から出ていった。
 鉛筆の音が神経質に響いている。しばらくすると係員はタッパーを持って戻ってきた。係員は職員にタッパーを渡す。職員は私の方へ駆けてくる。
「トマトソースです」
「どうもありがとうございます」
 私はタッパーを受け取って蓋を開けた。あまり煮詰めていない若いトマトソースだ。タッパーを脇に置いて、私は問題を読み返した。数式と図形がいくつか描かれていて、面積を求める、あるいは証明するというものだった。解答用紙はほとんどが自由記述だった。大きな四角が何個か配置されていた。
 私はトマトソースを指ですくった。答えだけはいくつも持っていた。問題から答えを発想することは難しい。潜在意識では知っていることでも、クイズになると答えられないという現象がよくある。私はたくさんの答え、なにに対する答えかはわからないが、とにかく答えというものをいっぱい知っている。答えの輪郭を私は解答用紙にトマトソースで描いた。次から次へと頭に浮かぶ答えの輪郭を、ひとつずつ丁寧に描いた。答えは、たとえば「犬」とか「3」とか「江戸時代」みたいに具体的なことばを持ってはいない。かたちはある。それがなんというものであるかを私は説明することができない。けれど輪郭を描くことはできる。輪郭をぐるっと描いたらそこにチェーンのように繋げて次の輪郭を描く。いくつも描いていく。
 これでできあがりだ、と思ったところでトマトソースのタッパーに蓋をする。私はプリントゴッコを大きくわにの口のように開く。問題用紙をプリントゴッコの口の中に置き、上蓋にトマトソースで輪郭をいくつも描いた解答用紙をセットする。位置を調整して、上蓋を閉じる。むき出しの電球を強くフラッシュさせる。目の前が白くなって、その後ぼわっと黒くなり、電球のかたちの黒い影のような光のようなものが目に焼き付いた。受験生の鉛筆の音は止まることがなかった。
 上蓋を持ち上げると、問題用紙に、答えの輪郭を反転したものがしっかりうつっていた。答えそのものではいけない。まっすぐな答えは間違いでもある。答えを超えた答えが必要なのだ。
 ゆっくりとまっすぐな挙手をした。職員が駆けてくる。
「トマトソースをお返しします、どうもありがとうございました」
「もうすべて解答したのですか」
「はい」
 私は言う。
「退出は終了三十分前から可能です。まだすこし時間があります。加筆や修正のためにもうしばらくお貸しします」
「いえ、けっこうです。ありがとうございました」
 トマトソースのタッパーを差し出すと、職員はおずおずと受け取って、教卓の方へ戻っていった。私はまっすぐ前を向いていた。職員もまっすぐ前を向いていたが、不思議と目が合わなかった。
 終了三十分前です、これ以降は退出が可能になります、と職員が告げた。私はプリントゴッコをボストンバッグにしまい、答えの輪郭が反転したもののうつっている問題用紙を持って、教卓の職員のところへ向かった。
「解答用紙は席に置いたまま退室してください」
 職員は言った。
「これは問題用紙です」
「問題用紙は回収します。解答用紙はどちらにありますか」
 職員が聞くので、私はボストンバッグを開け、解答用紙を取り出し職員に見せた。
「解答用紙を席に置き、問題用紙を提出してください」
 くしゃくしゃになった解答用紙を見つめながら職員は言う。
「問題用紙が解答用紙のときはどうしたらいいですか」
「問題用紙が」
「はい」
「解答用紙なのですね」
「はい」
 私はうなずく。
「では問題用紙もとい解答用紙を席に置き、解答用紙もとい問題用紙を提出してください」
「解答用紙は問題用紙ではありません」
「解答用紙は、なんですか」
「解答用紙です」
 私が言うと職員はしばらく黙ったのち、手を差し出した。
「わかりました、席には戻らなくて構いません。すべての用紙を提出してください」
「解答用紙がふたつになります」
「ひとつで結構です」
 私は、答えの輪郭の反転がうつっている問題用紙を提出して部屋を出た。答えの輪郭を描いた解答用紙は噴水に投げ入れた。
 中庭を通って建物群から出て、門の方へは戻らずに、右へ進んだ。五分ほどで煉瓦調の建物群が見えてくる。建物の建ち並び方は試験会場であった建物群とほとんど同じだが、すべての壁に煉瓦を模した模様が描かれている。私は中庭にある掲示板を見た。教室変更になっている授業は基礎Ⅱだけだった。教室番号を見て、私は基礎Ⅱの教室へ向かう。昼休みがもうすぐ終わろうとしていたが、中庭には人が溢れていた。講義に間に合うように急いで走っていくような学生はこんなところにはいない。すごいところの学生は余裕を持って行動するだろうし、すごくないところの学生はそもそも登校しない。結局どこにも講義に間に合うように急いで走っていくような学生はいないのかもしれなかった。
「あれ」
 私は足を止める。
「おー」
 前から歩いてきた坂本が軽く手を振り、集団から抜けて私のところへ来た。
「久しぶり」
「久しぶり」
 坂本の足下を見る。サンダルを履いている。ちゃんとしたサンダルではなく、安いプラスチック、というよりもっとチープな、ちょっと厚みのあるビニールでできたビーチサンダルだ。透明感のある黄色であることがおもちゃみたいな感じを増している。
「次なに」
 坂本は私に聞く。
「基礎Ⅱ」
「へー」
「坂本は」
「部室行こうかな」
「あ」私は筆記用具を持っていないことを思い出す。「部室、行くわ」
「基礎Ⅱは」
「出る、出るけど部室行く」
 坂本は目を軽く細めて私を見てから、背を向けて、歩きはじめる。黄色いサンダルと通路のコンクリートが擦れて、ずっ、とも、きゅっ、とも言いがたい、耳に響く音がした。私も並んで歩いていく。中庭を奥へ進むとひっそりと独立した部室棟がある。ここの壁も煉瓦調なのだが、赤茶けた煉瓦の模様に塗られているのではなく、灰色の煉瓦のようなものが建物全体に使われていた。内階段は崩れかかっていて、足を乗せるとぐらぐらする段がときどきあった。一階にも二階にもドアがたくさん並んでいる。ドアにはそれぞれの部の看板、表札のようなもの、マグネットなどが貼ってある。私たちの部室は二階にある。お墓を研究する部の捨てた卒塔婆を拾ってきて、ドアの横に置いてある。書いてある文字は読めない。なんの部活であるかを、文字を消して書き直したり、書き足したりはしていない。ときどきお墓を研究する部と間違えて入ってくる学生もいる。お墓を研究する部に回収されてしまうこともある。そのたび誰かがお墓を研究する部から卒塔婆を取り返して部室のドアの横に置くので、最近はめっきり回収されることが減った。
 ドアを開ける。九十度開くことができなかった。服やゲーム機や本や寝袋が乱雑に床に積まれて、めためたに散らかっている。どれが誰のものかはわからない。置いている本人もどれが自分のものかわからなくなっているのだと思う。
 奥に長い長方形の部屋だ。
 真ん中に長机があり、それを囲むように椅子がいくつも置いてある。テーブルの横を通るには体を横にしなくてはならない。かに歩きで私は歩く。遮光カーテンを締め切ってある窓のそばに冷蔵庫がある。上の扉を開くと霜のかたまりががごんと落ちた。坂本が、くくっとのどを鳴らして笑う。私は霜を踏みつけて崩し、部屋の隅に足で寄せた。冷凍庫からかちこちに凍ったおにぎりをいくつか取り出して長机の上に置く。海苔とご飯が別々に包まれているコンビニおにぎりである。部員のひとりがコンビニで働いていて、廃棄をもらってきては冷凍庫に入れているのだ。おにぎりの奥からラップに包まれたトマトソースをひとつ取り出す。小分けにしたものがいくつも積んである。
「立川が、それ、よけてくれないかなって言ってたよ」
 坂本が部室のドアに寄りかかりながら言う。
「おにぎりをよければいいのに」
 私が言うと坂本は笑う。
 冷凍室の扉を閉め、冷蔵庫の上に置いてある料金箱にポケットに入っている小銭をぜんぶ入れる。立川はコンビニの廃棄になるおにぎりをもらってきて、冷凍庫に入れ、部員に売っているのだ。
 凍ったおにぎりとトマトソースをボストンバッグにしまう。腕を組んでいる坂本と目があった。
「ほら」
 にやにやしながら坂本は言う。私はボストンバッグを冷蔵庫の前に置いて、机の横をかに歩きで通る。坂本の前に立つ。坂本はまだにやにやを続けている。はっきりとした二重の目だ。私はしゃがんで、坂本のズボンのボタンをはずし、チャックをゆっくり下げていく。パンツの上からでもわかるくらいに固いものがそこにはある。坂本を見上げる。坂本も私のことを見ていた。もう坂本はにやにやをしていなかった。私は坂本のパンツを下ろす。反り返るくらいに屹立した股間のオクラがぶるんと揺れた。私は坂本のふとももを両手で抱きかかえるようにして、坂本のオクラを口に含んだ。坂本は短く声を漏らした。すこししてもう一度、今度ははっきりと嬌声をあげた。私は坂本のオクラから口を離し、わざと時間をかけて顔を上げる。坂本が口をだらしなく開いて私の顔を見る。私はにっこりと笑った。坂本は私の頭をつかみ、オクラを無理矢理くわえさせ、上下に私の頭を激しく振る。坂本が手を離しても私の頭の動きは止まらなかった。
 口の中に残った白い粒を飲み込んだ。へたりこんだ坂本はあらぬところを見つめて荒い息をしている。私は長机の横をかに歩きで通って、ボストンバッグをななめがけにして、またかに歩きで長机の横を通り、坂本のところに戻ってきた。坂本はドアを背にして、足を投げ出して座っている。ドアを引くと坂本も動いた。自分で動いたのではなく、ドアに押される形でずるずると座っている位置がずれたという形である。なんとか通れるだけの隙間ができると私は外に出た。
 手を離すと部室のドアは勝手に閉まった。
 部室棟を出て教室棟へ向かう。中庭の端を通って、変更になった基礎Ⅱの教室番号を思い出そうとした。思い浮かんだ数字に自信がなかったので、もう一度掲示板を見に行った。数字は合っていた。私は教室へ向かう。やけに暗く、そして静かだった。教壇側ではなく後ろのドアを開ける。スクリーンに映像が流れていた。映画かドラマのようだった。学生の姿はまばらだった。私は適当な席に座る。人物が大写しになって映像が止まった。教授が、はい、というわけでした、と言って教室の電気をつける。スクリーンを巻き上げるスイッチを押す。ゆっくり上がっていくスクリーンが完全にしまわれるのを待たずに、教授は板書をはじめた。
 ボストンバッグから凍ったおにぎり四個とトマトソースの包みを取り出す。トマトソースはまだ凍っているが、爪でしゃりしゃりと削り取ることができた。爪でとったトマトソースを、おにぎりの成分表示のところに乗せていく。板書の輪郭を私は描く。板書された文章一段落分の見た目、というわけではない。板書されている内容の輪郭である。おにぎりの成分表示はそんなに大きな面積ではない。すぐにいっぱいになってしまう。ふたつめのおにぎりに手を伸ばし、そちらにも描いていく。うまく輪郭が鎖状に繋がるように工夫して配置する。みっつめ、よっつめにも描いた。
 よっつのおにぎりに描き終わり、プリントゴッコを取り出した。私はおにぎりの包装の上部から飛び出しているビニールのひもを引っ張り、成分表示と反対の、具材の絵が描いてある正面側のビニールを裂く。なかなかうまくびいっと裂くことはできず、力で無理に開けていく形になった。ビニールの裂け目が白くなっていく。なんとか底部まで開き終えると、まずのりを引き出す。それからかちかちのおにぎり本体、ごはんのかたまりを取り出す。かたまりのまま取り出すことは難しいので、一度真ん中からぱかっと割る。かちかちの米粒がいくつか飛び散った。具はさかなだった。ふたつに割れたおにぎりを包装から取り出すと、割れたところ同士を強く押しつけ、くっつける。表面を撫でつけると、一回も割れたことのない、なんならごはんであったこともない、生まれたときからおにぎりであったかのような、きれいなおにぎりができた。
 同じ作業を残りみっつにも行う。
 冷凍されたおにぎりは、裸のおにぎりがよっつ、包装のビニール、ほとんど崩壊したのり四枚、に解体された。
 私はプリントゴッコの口を開く。下あごにあたる厚みのある台座に、裸のおにぎりを並べる。上にあたる蓋部分におにぎりの包装のビニールを貼りつける。板書の輪郭が描いてある成分表示の面が見えるように貼る。冷凍されたおにぎりが解凍されていく間に生まれた水滴で、自然と、おにぎりの包装のビニールはプリントゴッコの上あごに貼りついた。
 プリントゴッコの上あごを閉じて、おにぎりとおにぎりの包装のビニールを挟み込む。電球をフラッシュさせる。カーテンを閉めたままの教室で電球のフラッシュは目立った。教授が振り返る。だらだらとした教授の話し声が止まったので、何人かの、突っ伏して眠っていた学生が目を覚ます。教授は板書に戻った。何事もなさそうだと思ったらしい学生たちはまた眠りについた。
 プリントゴッコを開いた。裸のおにぎりに板書の輪郭が反転されてきれいにうつっていた。私はおにぎりとおにぎりの包装のビニールを横によけて、プリントゴッコをボストンバッグにしまう。おにぎりの包装のビニールもしまう。のりは床に落とす。教授が、来週は記述式の小テストを行う、範囲は今回の授業だと早口で告げた。教授は、なにかごちゃごちゃ話していたが、チャイムがことばに重なった。チャイムが鳴り終わるのを待たずに教授は教室を出ていった。
 板書の輪郭の反転が印刷されたおにぎりをしまっていると、
「あの」
 と声をかけられた。顔を上げると知らない学生だった。
「いつもこの授業出てます? ノート貸してもらえないですか」
「え」
「お願いします」
「いや、ちょっと」
 私は断った。
「全部じゃなくてもいいです! 今回の分だけで」
「今日の分?」
「はい」
「今日の分だけでいいんですか」
「いいです! ほんと、すぐ返すので、コピーだけさせてください」
 学生は顔の前に手を合わせて、ぎゅっと強く目をつぶっている。私はボストンバッグから板書の輪郭の反転が印刷されたおにぎりを取り出して机の上によっつ並べた。学生はまだ目をつぶって祈っていた。
「置いときますね」
 私は席を立った。教室を出るとき振り返ると、学生はまだ祈っていた。
 中庭に出た。花壇のそばで輪になって座っているグループに見覚えがあった。ひとりと目があった。岩田はぶんぶんと大きく手を振りはじめる。振り返ろうかどうか決めかねているほかの数人のわき腹を岩田はつついた。いったん岩田自身に注意を集めてから、岩田は、私の方へ指をさした。グループ全員が、いっせいにこちらを見る。一拍間があってから、おー! 久しぶりじゃない? こっち来なよ、などとわいわい声があがる。私は手を軽くあげて聞こえているよという合図をし、近づいていこうとして、立ち止まった。噴水の向こうで、グループ全員がこちらを見ている。私を見ている。じっとりとした笑顔に耐えられず、私は手をバイバイの感じで振りながら中庭を後にした。えーなんだよ! 部室来いよー、などの声が聞こえてくる。やがて聞こえなくなる。
 私は門の方へ早足のまま歩き、さびれた商店街を抜けて駅へ行き、電車に乗って、降りて、住宅街を歩き、だだっぴろい芝生の真ん中を歩いて、自動ドアを開けた。なにもイベントが起こっていない、停滞した空気のある玄関ホールだ。首を異様に前に突き出したばあさんがテーブルにあごを乗せている。大きな声のじいさんが職員を困らせている。車椅子が何台も玄関ホールを、それから廊下を行き交っている。車椅子のじいさんやばあさんに足を止められながらも「こがたれいぞうこ」へ行き、一番奥の個室の引き戸を開けて部屋の中に入る。ボストンバッグをベッドの下に投げ込んで、床で寝た。
 土のにおいで目が覚めた。あたりがやけに静かで、ざーっという聞き逃してしまいそうな音量のノイズが流れていた。夜だった。夜であるのになぜかすこしだけ明るかった。窓が開いている。この建物の個室の窓は、ほんのわずかしか開かないようになっているはずだった。レースのカーテンが大きく風になびいていた。なびく音はほとんどしなかった。きわめて静かだった。
 ゆっくり起きあがる。しっとりとした気配で、このざーっという音が、ノイズではなく雨だと気がついた。
 背中と肩と腰と尻と首と頭が痛い。窓の方へゆく。窓は全開にされていた。ばはばはと私にまとわりついてくるレースのカーテンを避け、網戸とガラス窓を閉めようとして気がついた。網戸もガラス窓もなくなっている。私は窓から首を出した。網戸もガラス窓も落ちていなかった。なくなっていた。窓枠だけがあった。部屋の壁を四角く切り取ってどこかにやってしまったようだった。いや、誰かに切り取られたのではなく、もともとこういう空白があった部屋のようにも思えた。不自然さがなかった。最初からずっとこうだったみたいに思えた。
 窓から離れる。レースのカーテンが頭にまとわりついてくる。ごく薄いレースのカーテン以外にはなにも外と個室の中を遮るものがないというわりには、雨は室内に吹き込んでいなかった。雨は真下に落ちて、壁は地面と垂直に立っているから、という単純な理由かどうかはわからなかった。おそらく違うだろう。現に風が強く吹いていた。
 私は服を脱いだ。
 廊下へ出るとあちこちから小さなうめき声が聞こえていた。いつものことだった。年寄りは早起きで、早起きが過ぎて夜中じゅう起きているようになるものが少なくない。うめき声は言葉をなしていなかった。うう、とか、ああ、のような感じだった。痛みのせいで意図せず出てしまう声のような切実さはなく、ただなんとなく、うう、とか、ああ、とか言いたいから言っている、という感じの声だった。
 浴室に入る。ぺたぺたと歩いて浴槽に近づく。浴槽のふちを跨ぎ越して片足を入れたとき、つぶれているミニトマトが目に入った。浴槽の中、排水口の近くで、ミニトマトはつぶれていた。皮に厚みと張りのある、新鮮なミニトマトだった。浴槽の底は乾いていた。つぶれたミニトマトはぱかっと口を開いていて、口の中からじゅるっとした種があふれ出していた。私はミニトマトとしばらく向き合った。ミニトマトも私も動かなかった。私は黙って浴槽から出た。浴槽のふちを跨いだ勢いのまま浴室をあとにした。
 廊下にはまだうめき声が低く流れていた。「こがたれいぞうこ」に入ろうとして、私は振り返る。「かしつじょしつけんようき」の絵が描いてある表札を、それから「かしつじょしつけんようき」の入口を見る。「かしつじょしつけんようき」からはなんの音もしてこなかった。うめき声は聞こえていた。「かしつじょしつけんようき」からの声ではなかった。あちこちの部屋から少しずつ溢れたうめき声は、廊下中を反響して、どこの部屋からのものなのかわからなくなっていたが、それでも、「かしつじょしつけんようき」のものではなかった。
「かしつじょしつけんようき」の入口に一歩近づいてみる。一歩寄っただけでユニットルームの中がずいぶん見通せるようになる。居間には電気がついていなかった。手前のふたつの個室にも電気がついていないことは確実だった。もう一歩「かしつじょしつけんようき」に近づく。さらにひとつ奥の個室に電気がついていないことがわかった。キッチンの電気もついていない。
 さらに足を出すことがどうしてもできなかった。
 私は浴室に駆けていった。シャワーを雑に浴びて、廊下を、びしょびしょのまま大股で進んでいき、「こがたれいぞうこ」に入って一番奥の個室のベッドで寝た。
 キングオクラー、という呼びかけが聞こえてきた。キングオクラー、キングオクラー、とまた何人かが呼びかけた。キングオクラは、マイクでしゃべっているはずなのに、口の中でもぐもぐと言葉を咀嚼しているような明瞭でなさがあった。おそらく、次の曲がどんな曲かという説明をしたのだと思う。年寄りたちは、キングオクラが話し終えたあと、かなり遅れて揃わない拍手をした。すぐに前奏が拍手をかき消した。演歌のようなポップミュージックのような、なんともいえないジャンルの音楽だ。聞き覚えのあるメロディは、記憶にあるのに、具体的にこの曲のものだとはわからない。メロディぜんぶをはっきり覚えているわけでもない。ただ、なんとなく知っていて、いくつか先の音を口ずさむことはできる。その先はできない。キングオクラが歌っていくとちょっと先が思い出せる。私の頭の中のメロディは、キングオクラが歌っているところよりほんのすこしだけ前を走ることができるのだが、いくらか先までが限界で、すべてがばっと明らかになることはない。
 もどかしい気持ちにさせられる歌声を聞きながら私は服を着た。ボストンバッグを背負って個室のドアを開ける。「こがたれいぞうこ」からも出る。玄関ホールから、ステージがあるらしい方を向いた車椅子がいくつもはみ出している。年寄りたちがリズムに合わない手拍子をする。私は玄関ホールへ歩いていく。電子音と演歌とロックンロールがぐちゃぐちゃに混ざったような曲調を年寄りはどういう気持ちで聞いているのだろうか。曲はメドレーになっていた。どのメロディにも聞き覚えがあった。
 曲が急速に盛り上がって大げさなラストを迎えた。ちゃちゃちゃ、ちゃん、と終わって、拍手がされた。キングオクラ、キングオクラ、と年寄りたちが呼びかける。キングオクラはもちょもちょと話しはじめた。玄関ホールに私が着いたとき、キングオクラはまだしゃべっていた。私は足を止めて、がたがたにとめられているたくさんの車椅子の後ろから、キングオクラを見た。キングオクラは紋付き袴を着ていた。口紅が赤かった。肩幅の広いがっちりとした体格だった。その体格とまっすぐ伸びた背筋に見合わない、もちょもちょとした話し方がおもしろかった。私は車椅子の間を縫って、ステージ、といっても段にはなっておらず、フラットな床そのままで、キングオクラの立っているところ、の近くまで歩いていった。ひとつ開いている椅子があったので、座った。
「すごい名前ですよねえ」
 隣に座ったじいさんがキングオクラの方を向いたまま言った。ひとりごとかと思っていると、じいさんは私を見てにっこり笑った。じいさんは、キングオクラの方を指さして、すごい名前ですよねえ、ともう一度言った。
「あ、そうですね」
 私はあわてて返事をする。
「ちょっと、口に出して言いにくい」
「そうですね」
「そのくらいがちょうどいいのかもしれないですけど、特に年寄りには」
 じいさんの言葉に私はうなずく。じいさんは続けて、
「でもねえ、限度がありませんか」
 と言った。
「いや、そう思いますよ」
「ねーえ」
 ねー、としばらく伸ばし、はっきり、え、と言って伸ばす音を止めて、じいさんは首を振る。キングオクラはまだ口の中でもごもご言い続けている。
「お名前は」
「山下です」
 私は答える。
「和久井です」和久井さんは前を向く。「なにがいいんですかね」
「あまりお好きではないんですか」
「え?」
 和久井さんは聞き返す。
「こういう音楽は、あまり、お好きではないのでしょうか」
 ていねいに私は言い直す。
「というかね、こういう、慰問自体があんまり趣味ではないの。おもしろい? これ?」
「はあ」
「おもしろいこと見せてあげますよって来た人がおもしろいためしってある?」
「まあ、そうか、そうかもしれませんね」
「でしょう」
 和久井さんは得意げにうなずく。車椅子ではなくふつうの椅子に座っている。自由に歩ける程度には足腰が丈夫なのだろう。
 スピーカーから大仰な音楽が流れてくる。キングオクラのもごもごはいつの間にか終わっていた。これが最後の曲なのか、それともまだはじまってすぐなのかはわからなかった。和久井さんは腕を組んだ。尻をすこし前に出し、椅子の背にもたれかかって、新幹線の座席を倒したときのような姿勢になる。いまにも眠りはじめそうな和久井さんの細い目は、それでもキングオクラをじっと見ていた。キングオクラはやはり聞いたことのあるメロディを歌い出した。歌詞はよくわからない。合間にしゃべっているときとはうってかわってはっきり歌っているはずなのに、うまく聞き取れなかった。
 和久井さんはキングオクラが手拍子を促しても腕を組んだままだった。キングオクラの歌っているところを強いまなざしで見つめている。唇は閉じられている。固くへの字に、という感じではないが、たとえ求められたとしても一緒に歌ってはやらないぞ、という意志を感じた。
 私は和久井さんの膝に手をやった。和久井さんはキングオクラから目をそらさなかった。内ももの方へ指を運んでいく。私もキングオクラを見ている。見ているが、目がキングオクラの方を向いているというだけで、感覚は指の方に集中している。ズボンのチャックを手で探すが見つからない。和久井さんはベルトをしていなかったので、ズボンの中にずぼっと手を突っ込んだ。ももひきを履いているようだ。ももひきの下の層へ手を入れる。パンツだ。パンツの上からオクラをなぞってみる。ちゃんとある。オクラを包むように手を丸めて、オクラを撫でる。キングオクラは歌いながら、ステージ、ステージと想定されているだろうあたりの右側へ歩いていく。端にいた年寄りと握手をする。私は手の動きを速める。キングオクラはその隣の年寄りと握手をする。さらに隣へ、隣へ、と移動していき、ひとり飛ばして握手しようとした。抜かされた年寄りがぽかんとして、それから、ちょっと! と大声を出した。笑いが起こる。キングオクラは声を上げた年寄りと握手をした。やけに固く長い握手で、本当ならここでもう一回笑いが起こってもいいはずだった。年寄りは真剣に手を小刻みに動かしながらキングオクラの手を離さない。キングオクラがわざと嫌そうな顔をしてみせる。それでも笑いは起こらない。年寄りたちはキングオクラを真剣に見ている。私もキングオクラを見ている。パンツの中に手を入れようとしたとき曲がダイナミックな展開を見せていきなり終わった。私は手を引き抜いた。年寄りはまだキングオクラの手を離さなかった。ぱらぱらと拍手がされる。キングオクラが手をふりほどこうと、勢いをつけるために構えて、いざ動き出した瞬間に年寄りはキングオクラの手を離した。キングオクラは後ろに倒れそうになり、体を起こそうとよろめいて、年寄りたちにつっこんでいきそうになった。うまく上体を起こして力を逃がした。拍手が起こった。この拍手はあっている拍手だろうか、と思いながら私も拍手した。
「どうもならないよ」
 和久井さんは言った。
「どうもならないんですね」
 私も言う。
「うん、どうもならない」
 和久井さんは小さくうなずいて、キングオクラの退場するのを待たず席を立った。キングオクラはもちゃもちゃとしゃべりはじめた。年寄りたちはもうプログラムの終わりだと気がついて、年寄り同士で、あるいは職員と、話をはじめた。年寄りの声は、キングオクラのおしゃべりよりよく通った。私は立ち上がって和久井さんを追いかけようとした。車椅子が道をふさいだ。それぞれがそれぞれの行きたい方向に動き始めた車椅子の間を縫うのは難しく、車椅子に囲まれて、私は立ち往生した。やっと動けるようになったときには玄関ホールに人はまばらになっていて、和久井さんの姿はもう見えなかった。
 追いかけなくてもよかった、追いかけようとしなくてもよかった、と思いながら私は「こがたれいぞうこ」があるのと反対側へ進んだ。
 廊下を歩いていく。「こがたれいぞうこ」のある側の廊下の突き当たりは、「こがたれいぞうこ」、それから、「こがたれいぞうこ」に廊下を挟んでほとんど向き合うように「かしつじょしつけんようき」がある。ユニットルーム同士は完全に入口が向かい合うようにはなっていない。ちょっと、入口の広さ半分くらいずらしてある。プライパシーを守るための配慮なのだろう。
 一方、「こがたれいぞうこ」のある側と反対へ伸びている廊下の突き当たり正面には、控えめな引き戸がある。引き戸はユニットルームの個室の引き戸よりも重い。年寄りでも開けられる程度ではあるが、よし、開けるぞ、という気合いを入れなくてはならないくらいには力が必要だ。
 開けるとベッドがずらっと並んでいる。横に五列で、それぞれの列は十床近くありそうだ。横に長い部屋だ。ほとんどのベッドには人が横たわっている。鼻に綿が詰められた、死んだ人だ。この建物のユニットルームで暮らしている人たちの割合からするととんでもなく多い。どこかから連れてきてここに安置しているのかもしれない。もしくは、引き取り手がなくて、何年も眠りっぱなしというパターンだ。さすがに腐ってしまうだろうか。けれど死んでここに運ばれていく人も、ここから引き取られていく人も、私は見たことがない。気づかれないように細心の注意を払って行われているのかもしれない。ひっそりと入れ替わりを重ねる遺体。前に見たときといま見ているものと、同じ人であるか違う人であるか、全くわからなかった。どの人においてもそうだ。全員に見覚えがない。けれどどれも同じように見える。
 ぐるっと回ってひとりを選ぶ。決めたその人の、ズボンとパンツをまとめてつかんでずるっと下ろす。ここのご遺体はみなアジアン調のズボンにアジアン調の上着を着せられている。刺繍がされている麻でできた服だ。ズボンを脱ぐと肌が露わになる。しみとしわだらけの肌であるが、発光していて、てらてらと白い。照明のためかもしれないが、白い、とても白い腰回りを、私は思わず撫でた。肌と肌が吸いつくような感じがない。からからに乾いている。体の奥から染み出している白さは、死んだ年寄りに、肌つやまでは与えていなかった。
 オクラを見る。しっかりとした立派なオクラだ。撫でてみる。すこし硬さがある。遺体のオクラは張りを取り戻して硬くなると聞いたことがある。反り返るほどの硬さではない。下を向いていて、内ももの間におさまっているが、オクラの形をちゃんと維持している。私はやさしくオクラを握った。ぷちっと音がした。オクラは縦に裂けた。盛り上がっている一辺が、根本から先まで開いている。私はオクラをつかんだ手を離せなかった。離すとオクラが開いてしまい、中身があらわになる。あらわになった中身を直視できる自信が私にはなかった。
 私は反対の手でそっとズボンとパンツを履かせた。かなり苦戦した。尻を持ちあげてベッドとの隙間を作り、ズボンを滑りこませる作業は、両手であればなんなくできるのだろうけれど、片手で、しかも手の向きと握る強さを変えずに行うのは、大変な作業だった。
 ズボンとパンツを履かせ終わると、私はオクラを握った手を勢いよく引き抜いた。引き抜くときに、裂けた部分に指が引っかかった。オクラの内部に指先が触れた。思った以上にしっとりと、ねっとりとしていた。それは当たり前で、普通の、生きている人のオクラの内部も、きっとしっとりねっとりしているはずだ。死んだ人のオクラの中身は、想像するだけならおもしろい。幻想的ですらある。実際に触れてみると、生っぽさが強く主張してくる。死んでいる人の生っぽさだ。生きている人の方が生っぽさが少ない。死んでいるは生きているだし、年をとるは生きるに近づくことだ。生きている私には死んでいる人の生っぽさは過剰すぎた。
 引っかかった指を抜き、死んだ人のズボンの裾で拭う。感触は残ったままだ。線香の香りが強くなった。急に遺体が、遺体の安置してある部屋にいるということがこわくなってきて、私は部屋を出た。ドアをしっかり閉めた。「こがたれいぞうこ」まで早足で歩いた。廊下を行き交う車椅子は私を避けて進んでいるので、まっすぐ歩いていくだけでよかった。
 ユニットルーム「こがたれいぞうこ」に入ると、個室のドアがなくなっていた。私の使っている一番奥だけでなく、すべての個室の引き戸がなかった。部屋に入る。窓は復活していなかった。西日が射していた。窓があったときよりずいぶん暑いような気がした。汗が止まらなかった。「こがたれいぞうこ」のそれぞれの個室にも、共用のリビング部分にも誰もいないことはわかっていたが、誰かに覗かれないかと不安になった。窓から外敵が入ってこないかも心配だった。外敵というのは些細な虫ではなく、もう一メートルくらいある人を食うような虫、もしくはとんでもない凶器を持った泥棒、そういうものだ。どちらもきっと来ない。ただ、来るときには来る。いや、窓からの侵入者は、それほど驚異ではなかった。それより個室のドアがないことが問題である。誰かが覗いていたら、私の寝ている間にじっとこちらを見ていたら、それがこわい。
 こわいこわいと思っているうちに眠っていた。
 目が覚めると日が暮れていた。年寄りたちの食事が終わって、みなが眠りはじめているくらいには、どっぷり暮れていた。
 服を脱いで廊下を歩いた。うめき声があちこちから聞こえてくる。よくよく耳を澄ますと、うめき声ではなく、歌だった。メロディに聞き覚えがあった。歌詞は聞き取れなかった。なんのメロディかはわからないが、とにかく知っているメロディだった。浴室のドアを開けて、はっと気がついた。キングオクラだ。キングオクラの曲を、年寄りたちは口ずさんでいるのだ。キングオクラの曲自体ではなく、キングオクラの曲のもとになった曲のメロディである可能性はあった。キングオクラの曲に聞き覚えがあるのだから、元ネタがどこかにあることは確かだった。誰のどんな曲かは全くわからなかった。もしかしたら、年寄りの歌っているのを聞いて、そのあとキングオクラの曲を聞き、だからキングオクラの曲にはなにか有名な原曲があるものだと思いこんでいたのかもしれなかった。そうなると年寄りは誰から聞いてこのメロディを覚えたのだろうか。もともと知っていたのだろうか。では私も、もともと知っていたのではないか。
 足を止め、廊下を引き返して「こがたれいぞうこ」へ帰った。個室の引き戸も窓もなかった。さっき「こがたれいぞうこ」を出たときとなにも変わっていなかった。一番奥の個室に入って、ベッドに横になってもうめき声は聞こえてきた。聞いたことがあるのにこれだと説明できないメロディに、やきもきさせられた。メロディを歌ってみようと口を開いた。年寄りのうめき声、歌声を追っていく。その先の音を捕まえて真似ようとする。何音か先までは思い浮かぶけれど、歌えはしなかった。鼻歌でも無理だった。昼間、キングオクラがどんな曲を歌っていたかを、どんなメロディであったかという記憶を引っ張り出してきたが、歌っているキングオクラの服装や口にひいた紅ばかり浮かんできて、肝心のメロディはまったく思い出せなかった。
 私は服を着た。別に着なくてもよかったのだが、個室のドアがないと、誰かが入ってくるかもしれない。そのとき全裸だと、面倒なことになりそうだ。ドアがあったときは誰も入ってくることがなかった。なくなったからといって、とたんに人がどんどん出入りしてくるとは考えにくかった。単純に、気になるから、という理由が大きい。私は気になるから服を着た。
 再び目を覚ました私はボストンバッグを背負って、個室を出て、「こがたれいぞうこ」を出て、廊下を車椅子に阻まれながら歩き、玄関ホールで年寄りが輪を作っているのを見た。折り紙で作る輪だ。細長い折り紙の端をとめて輪をつくり、ふたつめはひとつめの輪と組んでからとめて、ふたつの輪がつながっている状態にし、それを続けていって長い鎖を作るというものである。黙々と作業しているばあさんがひとり、いや離れたところにもうひとり、合わせてふたりいた。あとの者は、細長い折り紙を持たされてぼんやりしているか、持たされた折り紙を落としてぼんやりしていた。
 長くなって、床に垂れていた折り紙の鎖を、すごい速さでやってきたじいさんが車椅子で踏んだ。じいさんはすごい速さで去っていき、廊下を徘徊する車椅子の群れに混ざっていった。作業をしていたばあさんは手を止めずに輪を繋ぎ続けていた。向こうのテーブルにいたもうひとりのばあさんが、折り紙の鎖を引いた。鎖が持ち上がる。ふたりのばあさんはひとつの鎖を共用していたようだった。両端でそれぞれが輪を作り、長さを伸ばしているのだった。
 車椅子のじいさんが踏んだのは鎖のちょうど真ん中あたりだった。ふたりのばあさんは、輪を繋ぐことに没頭している。ひとりのばあさんと同じテーブルにいたじいさんが、椅子から立ち上がろうとして、鎖の途中がつぶれていることに気がついた。
「ちょっと」
 声をかけられたばあさんは見向きもしなかった。
「ねえ」
 じいさんはもう一度声をかける。ばあさんは手を止めない。じいさんは鎖のつぶれたところとばあさんの顔を交互に見る。何度も何度も見る。ばあさんは手を止めないし、じいさんは交互に見るのを止めない。私はどうなるのだろうかとしばらく様子を伺っていたが、両者ともに止めない、が続いたので、玄関へ行き自動ドアの前に立った。歩行器に乗った年寄りが玄関に近づいてきて職員につかまった。私は外へ出た。
 広い芝生を超えて住宅街を歩いて電車に乗って乗り換えた。さびれた商店街をしばらく進むと門が見えてくる。受験番号を教えてくれたら合格しているかどうか確認して電話をしてあげる、と制服の生徒に迫っている怪しいじいさんがいた。一瞬目があったが、無視して奥へ進んでいく。中庭を通って事務室へ向かう。ワードで打った大きな文字で、事務室です、というようなことが書いてある紙が貼ってある。私はドアを開ける。教卓の近くに集まっていた何人かの職員がはっとこちらを向く。教室の後ろ側のドア、教卓から一番離れたところから入ってきた私は、職員たちの方へ歩いていく。職員のひとりが駆け寄ってきた。パンツスーツの職員だった。
「どうされました?」
「受験票を忘れてしまいました」
「お名前は」
「山下です」
「山下さん」
 職員は私の顔をじろっと見る。
「はい」
「山下さんですね」
「そうです」
私は言う。
「受験票をお忘れなんですね?」
 首をすこし傾けて職員は言う。私ははいと答える。
「山下さん」
「はい」
 私はまた答える。
「誰でも受けていいんです、入試というのは」
 傾けた首をそのままに職員は言う。
「はい」
「何回でもいいんです」
「はい」
「山下さんは、いま、受験が、何回目でいらっしゃいますか?」
 私はすこし考えた。思い出せなかったので首を傾けて考えた。それでも思い出せなかったので首を傾けたまま職員の方を見た。職員は私をじろっと睨みながら傾けていた首を戻した。私は首を傾けたままにした。
「数え切れないですよね?」
「あ、はい」
 その通りだったので私は首をまっすぐに戻した。
「繰り返しになって恐縮ですが、入試というものは、誰でも受けることができます」
「はい」
「同じところを数え切れないくらい受ける人がいますか?」
 私は首を傾けた。職員は私の頭を掴んで無理矢理首をまっすぐに戻した。
「あなたですよ、あなたの話をしてるんです」
「はい」
 そうだと思っていたので私はうなずいた。職員は私の頭から手を離してくれなかった。
「毎回毎回受験票を忘れて」
「はい」
「毎回筆記具を忘れて」
「はい」
「毎回申し込みをしていないですよね?」
「はい」
「試験を行うにもコストがかかるんです」
「はい」
 私が返事をすると、職員は私の頭を掴んだまま横に倒した。私の左肩に左耳が触れた。職員はもっと頭を倒そうとしていた。肩が押されて縮こまっていき、それでも職員は倒し続けるので、私は立っていられずひざをついた。職員は私の頭を上から押しつけて、床にたたきつけた。そこで終わらず、さらに私のこめかみのあたりを手のひらで床の方へ押し続けた。床はコンクリートで硬くて冷たい。頭をみしみしという音が占めている。このまま押しつぶされるのだろうなと思ったが、職員を教卓のところにいたほかの職員たちが取り押さえた。私も職員から引き離された。職員も私も羽交い締めにされた。職員はいろいろな言葉を叫んでいたがよく聞き取れなかった。私は羽交い締めに対して抵抗をしなかった。
「すいません」
 私は私を羽交い締めしている職員に話しかける。羽交い締めしている職員は目でほかの職員を呼ぶ。やけに腰の低いめがねの職員がやってきた。
「どうされましたか?」
 めがねの職員は聞いてくる。
「あの、受験票を忘れたんですけれど」
「受験票ですね」
 めがねの職員は教卓のところへ行った。パソコンに向かったが、作業権限がないらしく、あたりをきょろきょろ伺って、はっと気がついたように、私のところへ戻ってきた。
 私を羽交い締めしている職員にめがねの職員は小声で話しかける。羽交い締め職員はうんうんとうなずきながら聞いているようだ。羽交い締め職員は私から手を離し、めがねの職員とともに教卓のそばのパソコンへ向かった。なにやら作業をして、プリンターから印刷されたものをめがねの職員が私のところへ持ってきた。
「お待たせしました」
 受験票を受け取って私は事務室を出た。柱に貼ってある受験番号と教室の一覧表を確認して、自分の番号の該当する教室へ行き、ドアを開け、受験票に書いてある番号の貼ってある席に座った。膝に手を乗せて背筋を伸ばしてしゃんと座って、あ、そうか、私は受験の申し込みをしていなかったのか、と気がつき、立ち上がって教室を出た。
 歩いて煉瓦作りの棟へ行く。掲示板を確認する。教室変更になっている講義はないようだった。つまり私の受けられる講義はないということだった。ここに教室番号の書いてある講義にしか私は出席できない。いろいろな講義がどこでやっているかを私は知らないからだ。毎日ここに来て教室番号がなにかしらの形で掲示してある講義に出席するというのが常だった。
 出られる講義がないのであれば行くところがなかった。私は中庭に出た。花壇の周りに見覚えのあるグループがいた。岩田が私に手を振った。ほかの皆もこちらを見た。その中には坂本もいた。つぎ空きなの、部室来いよ、などという声を私は無視して門の方へ歩いていった。門のところには合格か不合格かを確認して電話をかけてやると主張するおじさんがまだ立っていた。
 私はおじさんに話しかけた。
「あの」
「おっ」
 おじさんはうれしそうにこちらを向く。
「合格か不合格か、電話してくれるんですか」
「そうだよ」
「お願いできますか」
「はいよ、受験番号教えてくれる?」
 私は受験票をおじさんに渡した。おじさんはろくに確認もせずポケットに受験票をつっこんだ。
「じゃあ、またね」
「はい」
 私は寂れた商店街を駅の方へ歩いた。電車を乗り継いで、住宅街を抜け、広い芝生を歩いて、自動ドアにつけられたボタンを押した。昼食が終わったあとの玄関ホールは閑散としていた。何人かの年寄りがぼんやりとどこかを眺めていた。突っ伏して眠っているじいさんを誰も起こさなかった。廊下を走る車椅子たちに足を止められながら「こがたれいぞうこ」へ進んだ。一度「かしつじょしつけんようき」をちらりと見たが、車椅子が私のボストンバッグに車椅子を当てて逃げていったことに気を取られたとたん、車椅子が追い立ててきたので、あわてて「こがたれいぞうこ」へ戻った。
 キッチンの横を抜け、リビングを歩いているときに、急激な違和感がきた。立ち止まる。人の話し声と効果音が聞こえてくる。テレビがついていた。じっと見つめてみる。ことばや編集の意味合いがいまの私にはわからず、ただものすごい速さで何かが移り変わっているな、ということだけが理解できた。
 振り返る。リビングにあちこちを向いて置いてある長テーブルのうちのひとつに車椅子の年寄りがひとり、離れたテーブルにもうひとり車椅子の年寄りがいた。ふたりとも背を丸くしてテレビでも私でもテーブルでもないどこかを見ていた。「こがたれいぞうこ」に入るときにはふたりの年寄りに気がつかなかった。キッチンで薄い青色の制服を着た職員が食器洗いをしていた。シンクに目をやったままで年寄りに話しかけているが、年寄りふたりは全く反応しない。片方の年寄りが自分の乗っている車椅子を少しバックさせた。向きを変えて「こがたれいぞうこ」を出ていく。風呂上がりでほかほかのじいさんが、寝かされた状態で「こがたれいぞうこ」に入ってくる。体格のいい職員がストレッチャーを押していた。ストレッチャーを押している職員は個室の引き戸を開け、簡単な器具でドアを開けたままに固定し、自分が先に入ってストレッチャーを引き込んだ。器具を外してドアを閉めた。
 私は一番奥の個室へ進んだ。引き戸を開けるとばあさんが座っていた。ベッドではなく、どこかから出してきたらしい丸椅子に腰掛けていた。誰も眠っていないベッドをいとおしげに見ていたばあさんは、私に気がつくと、笑顔のまま、ゆっくりとおじぎをした。私もゆっくりとおじぎをした。そして引き戸を閉めた。
「こがたれいぞうこ」の、リビングの端の椅子に私は座った。午後のおだやかな空気が、清潔なにおいが「こがたれいぞうこ」に満ちていた。どうしたらいいだろうかと私は考えた。年寄りたちも職員も私を積極的に「こがたれいぞうこ」から追い出すことはしなかった。私に気がついていないという感じすらあった。だから「こがたれいぞうこ」のリビングの端にならば、いてもよいのだろうと思った。確信は持てなかった。夜になってさっと追い出されてしまう可能性はあった。
 腰が重かった。膝に抱いたボストンバッグも重かった。これからどこか新しいところに行くのは難しそうだった。私の頭に「かしつじょしつけんようき」がよぎった。あそこは「こがたれいぞうこ」同様空き部屋であったはずだ。いま「こがたれいぞうこ」は空いていないが、「かしつじょしつけんようき」はまだ空き部屋であるかもしれなかった。見てみないとわからない。私は立ち上がった。「こがたれいぞうこ」をあとにした。キッチンの横を通るとき職員に、いってらっしゃい、と声をかけられた。
 廊下を車椅子が爆走している。いくつもの車椅子が同時に、びゅんびゅん行き交っているものだから、向かいにある「かしつじょしつけんようき」に行くために廊下をちょっと横断することすら困難だった。困難どころか不可能とすら思えた。
 車椅子の動きの規則を見極めようとしたがわからない。そもそも車椅子が何台、何人なのかも掴めない。そんなに多くなさそうだが、少なくとも同時に五人が確認できた。年寄りたち個々を見分けることはできない。全員がまとまって、年寄り、をなしていて、個という存在は霧消したのだと私は考えていた。しかし個々が個々の動き方をするというプログラムだけは残っていて、それが車椅子たち全体の動きが読めない理由だった。
 車椅子に足を止められながらも私は「かしつじょしつけんようき」へ向かった。何度も車椅子にはねとばされそうになった。車椅子はけして私をふっとばしたりけがをさせることはなかった。いつもぎりぎりで私または車椅子どちらかが停止した。どうせぶつからないのだと思うとすいすい進むことができた。
「かしつじょしつけんようき」の入口になんとかたどり着いた。中を覗いてみる。見える範囲に人はいないようだ。少しずつ歩を進める。リビング部分には誰もいない。椅子やテーブルはあちこちを向いているけれども、あちこちを向いているなりにきれいに揃えられていた。なんの音もしなかった。いや、よく耳をすますと、車椅子が廊下を走る音がした。車輪が回る音なのか、車輪が廊下を滑るときに鳴る音なのか、こいでいるときの手が車輪を押す音なのかは聞き分けられなかったが、そういうものが渾然一体となって、ひとつの音のような顔をして、しゃーっと鳴っているのだろうと私は思った。
 キッチンを振り返る。キッチンにも人はいない。近づいてシンクを覗く。まっさらな、水垢ひとつない、よく磨かれたシンクだ。
 個室のドアはすべて閉められている。入口に近いところから順番に開けていくことにした。ひとつめの引き戸を開ける。誰もいない。整頓された室内である。ベッドにぴんと張られたシーツは真っ白で、誰かがシーツに触れたような形跡はなかった。
 ふたつめの個室へ移る。引き戸を開ける。誰もいない。私は引き戸を閉めた。
 みっつめの個室へ移る。引き戸を開ける。誰もいない。私は引き戸を閉めた。
 よっつめの個室へ移る。引き戸を開ける。誰もいない。私は引き戸を閉めた。
 いつつめの個室へ移る。引き戸を開ける。誰もいない。私は引き戸を閉めた。
 むっつめの個室へ移る。引き戸を開ける。誰もいない。私は引き戸を閉めた。
 ななつめの個室へ移る。引き戸を開ける。誰もいない。私は引き戸を閉めた。
 一番奥の個室が最後に残った。引き戸を開けようとして、手が震えていることに気がついた。震えるままにしておいた。震えは止まなかった。反対の手で私は一番奥の個室の引き戸を開けた。誰もいなかった。私は立ち尽くした。しばらくして、ゆっくりと部屋の中に入った。窓は閉められていた。タンスの中には何もなかった。ベッドの下にも何も置かれていない。壁に何かが貼られているということもない。シーツはぴんと張られている。ほかの部屋と全く違いがなかった。
 私はしばらく考えて、一番奥の個室の引き戸を閉めた。「かしつじょしつけんようき」を出た。廊下の車椅子たちに足を止められながら玄関ホールへ行った。玄関ホールの年寄りたちはさっき見たときと一ミリも動いていないように思えた。停滞した空気を打ち消そうと日の光が射し込んでいた。部屋の明るさなどではどうにもならないたぐいの空気だった。どこまでも清潔で、清潔ゆえに停滞していた。
 私は玄関ホールの、誰もいないテーブルを選んで、端の席に腰掛けた。背中を丸めて、ぼうっとどこか一点を見つめてみる。すぐに飽きがきた。時間のつぶし方がわからなかった。眠くなったのでテーブルに突っ伏して寝た。
 起きるとテーブルにお盆に乗せられた食事が並んでいた。ひとつのお盆に対して、ひとりの年寄りが対応していた。夕食を飛び越えて、朝食、あるいは昼食のようだった。私は席を立とうとした。うす青い服を着た職員が私の肩を掴んでそっと座らせた。別の職員が食事を持ってきた。おかゆだった。お盆の真ん中にプラスチックのどんぶりが置いてあり、そこになみなみとおかゆが注いであった。スプーンが添えられていた。薄く湯気が上がっていた。
 おかゆと私は向き合った。私以外の年寄りたちは、魚と汁物と飯の食事をとっていた。食べているのだかこぼしているのだかわからない者もいた。一口がひどく小さくゆっくりな者が多かった。がつがつ食べすすめている者はいなかった。そういう者は早く食べ終えてさっといなくなったのかもしれなかった。
 おかゆの入ったどんぶりにスプーンを深く差し込んで持ち上げた。ぼったりしたおかゆがスプーンからこぼれた。私はスプーンをおかゆの中に戻した。ボストンバッグからプリントゴッコを取り出してテーブルの上に置いた。お盆からおかゆの椀をどかして、お盆におかゆで輪郭を描こうとした。なんの輪郭を描こうか、なんの輪郭を描けばいいのか思いつかなかった。
 私は手を上げた。うす青い服を着た職員が駆け寄ってくる。
「すいません」
 私は言う。
「はい」
「トマトソースをいただけますか」
「トマトソース」
 職員は笑顔のまま聞き返す。
「はい」
 私はうなずく。
「ちょっと待ってくださいね」
 職員は走って廊下の向こうに消えた。しばらく待っていると職員がどんぶりを持って戻ってきた。
「はい、お待たせしました」
 どんぶりを、職員は私の前に置いた。中にはたっぷりのおかゆが入っていた。年寄りに呼ばれて走っていこうとする職員を私は呼び止めた。
「あの」
「はい」
「トマトソースを」
「ええ」
「お願いしたんですが」
「はい」
 職員はにっこりと笑っておかゆの入った椀を手で示す。私が椀と職員の顔を見比べていると、職員は味噌汁をこぼしたらしい年寄りのところへ走っていった。
 職員の持ってきたおかゆに指を浸してみる。指に、形を失いかけた米粒がまとわりつく。まごうことなきおかゆである。
 指を持ち上げておかゆをすくい上げる。糊状の液体だけがとれて、米粒はついてこなかった。私は指をお盆に近づける。輪郭を描こうと試みる。なんの輪郭も頭に浮かんでこない。いろいろなことが頭の中にはある。輪郭だけがすっぽり失われている。すべての輪郭がわからない。私は指をおかゆの椀の縁にこすりつけて、指からおかゆを取り去った。ねっとりとした感覚が指に残った。
 ふたつのおかゆを目の前にして、どうもできなくて、私は突っ伏して眠った。
 打ち込みのドラムが聞こえてくる。演歌のような大げささと、テクノポップのようなかろやかさ、その他いろいろなジャンルをごちゃっと足して割らない、ごちゃっと足されたままの音楽だ。顔を上げると紋付き袴のキングオクラが前奏に合わせて体を揺らしていた。
 周りの年寄りたちは揃わない手拍子をしている。私は椅子をキングオクラの方へ向けた。ひじがテーブルにぶつかって、おかゆがどぷっとこぼれた。私の前のおかゆ以外、年寄りたちが食べていた食事の食器類はすべて片づけてあった。キングオクラは明瞭な発声で歌う。歌詞は聞き取れない。なにを言っているのか、ひとつひとつの音としてはわかるのだが、頭の中で意味をなすことはなかった。聞き覚えのあるメロディだ。私は鼻歌でキングオクラのメロディをなぞろうと試みる。絶対に聞いたことがあるのに、知っているはずなのに、キングオクラが歌っているより先が思い出せなかった。みなが知っている曲の替え歌なのだろう。それにしてはどの曲のタイトルも思い出すことができなかった。キングオクラが曲と曲の合間に話をしているときに、ついさっきまで歌っていた曲がどんな曲だったかを思い出して口ずさむこともできなかった。覚えているのに思い出せず、聞いた後にはすぐ忘れた。何曲ものメドレーで、どの曲にも聞き覚えがあった。どの曲も思い出せなかった。
 口の中でもごもごと話をしているキングオクラを私はじっと見つめた。何度見てもぴんとこない顔だった。毎回見るごとにこんな顔だったっけと疑うところからはじめなくてはならない、記憶に残らないタイプの顔のつくりだ。紋付き袴と唇に引かれた赤い紅の感じで、ああ、これはキングオクラだ、と識別ができる。紋付き袴でなかったら、もしくは、ただ紅をひいていないというだけでも、私は目の前にいるのがキングオクラかどうかわからなくなるだろう。
 キングオクラの輪郭も、曲やキングオクラそのものと同様、非常に掴みにくかった。キングオクラという名前だけが先行していて、目の前で話していて、歌っているのに、実際のところどういう人間なのかをわかりにくくしていた。本質、芯、そういうものがキングオクラにははっきりとあるだろうにもかかわらず、一言で、これ、と説明できるような何かをキングオクラは持ち合わせていなかった。キングオクラが持っていないのではなく、私が、キングオクラの本質をとらえるだけの能力を持っていないのかもしれなかった。
 もちゃもちゃとキングオクラは話し続ける。どうやったらキングオクラの輪郭を掴めるのか見当もつかなかった。
 キングオクラが話している途中で、じいさんが、キングオクラー! と叫んだ。やたらに大きな声だった。キングオクラはもちゃもちゃ話を続けながらも、ちらと声のした方に目をやった。じいさんはもう一度、キングオクラー! と叫んだ。ときどき玄関ホールで大きな声を出しているじいさんだった。キングオクラは首をじいさんの方に向けた。口はもちゃもちゃと動き続けている。
 じいさんの反対側から、キングオクラー! と呼ぶ声がした。ばあさんだった。ばあさんが手を拡声器代わりに、枯れた声で、しかししっかりとキングオクラの名前を呼んだ。キングオクラはばあさんの方を向かなかった。じいさんの方に顔を向けたまま話を続ける。キングオクラー! と私の後ろの年寄りが言った。キングオクラー! とまた別の年寄りが言った。キングオクラー! とさっき叫んだじいさんがひときわ大きな声で言った。あちこちでキングオクラコールが起こった。キングオクラは首をきょろきょろさせて、それでも、もちゃもちゃしゃべることを止めなかった。前奏が始まった。キングオクラコールは続いていたが、年寄りたちの声が揃ったり、全員で揃えた手拍子がはじまったりすることはなかった。キングオクラが歌い始めると年寄りたちはコールを止めた。手拍子もしなかった。じっとメロディに聴き入っていた。私は振り返って年寄りたちを見回した。どこかに和久井さんがいるはずだったが、見あたらなかった。どこかにはいるはずだった。私はキングオクラに目を戻した。キングオクラは聞いたことのある、思い出せないメロディを歌っていた。間奏になるとキングオクラコールが起こった。キングオクラが歌い始めるとキングオクラコールは止んだ。曲が、盛り上がりをみせて唐突に終わる。揃わない、力のない拍手がぱらぱらと鳴った。声のでかいじいさんが、キングオクラー! と叫んだ。誰も後に続いてコールをしなかった。
 去ろうとするキングオクラを私は追った。キングオクラは職員に導かれて廊下を歩いていた。
「あの」
 私が言うと紋付き袴のキングオクラは振り返った。
「はい」
 はっきりとした発音でキングオクラは返事をした。曲と曲の合間にしゃべっているときのもちゃもちゃした感じはなかった。
「あの」
「はい」
「・・・・・・あの」
「はい」
 あの、と、はい、のやりとりを私とキングオクラは繰り返した。言葉の出てこない私に、キングオクラと職員はなにもすることができなかった。私の問題であって、キングオクラの問題でも職員の問題でもないから、できることがなかったのだ。
 ふたりはじっと私の言葉を待っていた。
 私は、あの、を口の中で何度も言いたくなくなるまで繰り返した。あの、が引っ込んできた頃合いを見計らってようやく口を開いた。
「輪郭を教えてください」
「輪郭?」
 職員が言った。
「はい」
 私はうなずいた。
「教えることはできないな、私は教師ではないから」
キングオクラは言って、私を見た。私はじっとキングオクラの言葉の続きを待っている。
キングオクラは続ける。
「教師ではないというのは、教えるのがうまくないからという意味で、だから教えることができないというよりは、教えられないという方が正しい」
「教えてくれなくてもいいです、見せてくれれば」
「見せる?」
 職員が言った。
「はい」
 私はうなずく。
「どうやって見せたらいいのか皆目見当がつかない」
 キングオクラは申し訳なさそうに言う。私を見て、さらに申し訳なさそうな表情をする。その申し訳なさは作った申し訳なさで、ほんとうは申し訳なく思っていないことに私は感づいていた。キングオクラを見つめてじっと待つ。
 膠着状態に耐えかねた職員がキングオクラを連れて行こうとした。キングオクラは動かない。もう、申し訳なさそうな顔をしていない。どういう考えなのかわからない、そもそもキングオクラという人であるということすら、目を離した途端忘れてしまいそうな目鼻の配置だった。
 私はキングオクラをじっと見た。
 キングオクラは肩から背中へ手を回して、背負った剣を引き抜くような動きをした。ものすごい大きさの輪郭、物理的にものとして存在する輪郭が現れた。キングオクラは輪郭を持ち上げて私に手渡した。どのように受け取っていいのかわからず、キングオクラの握っているすぐ下の部分を私は握った。キングオクラは手を離した。ずんと輪郭の重さがくる。
「どうぞ」
 キングオクラは言う。
「あの」
 私は言う。
「はい」
「もらっていいものなんですか」
 私が言うとキングオクラはほんの少し首を傾けて考えているようだった。
「あげたことがないからわからないのだけれど、よかったら、どうぞ」 
「ありがとうございます」
 頭を下げて、上げるとキングオクラはもう歩き始めていた。ユニットルームのひとつに職員とキングオクラは入っていった。もうキングオクラがどんな顔だったかを思い出すことはできなかった。二メートルを軽く超える大きな輪郭が残された。輪郭はキングオクラを濃厚に表していた。キングオクラという人間そのものの体のラインとは全く違っていた。
 輪郭を回して、肩にひっかけられそうな部分を探す。縦にも横にも大きい輪郭を私はボストンバッグをかけているのと反対の肩にひっかけた。ひどく重い。引きずらずに移動できるバランスを探して、なんとか持ち上げ、私は玄関の方へ歩き始めた。
 住宅街を抜け、車通りの多い道路へ出る。日はまだ出ているが、街灯の明かりがつきはじめている。歩道に出された飲食店のメニューたちは日中からずっと光りっぱなしのようだった。強い色使いの大きな看板がいくつも並んでいる。ラーメン屋の開店を待つ人たちが列をなしている。焼肉屋とインド料理屋のあいだにある階段を私は降りた。さりげない青紫色に光る階段を、輪郭をひっかけて落とさないように慎重に下り終えると、重厚な木のドアが開く。白シャツにベストを着たじいさんが頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
 じいさんは頭を上げると、ちょっと目を見開いて、すぐに優しい笑顔に戻った。
「どうぞ」
 私はじいさんの後についていった。百席以上の客席はほとんどすべてが埋まっていた。いらっしゃいませ、があちこちから飛んでくる。じいさんはホール担当に近づいていき小声でなにか言った。ホール担当は耳打ちをする。ふたりは渋い表情になる。渋い表情を残したままじいさんは私のところへ戻ってくる。
「ずいぶん混雑していらっしゃいますね」
 私は言う。そして、
「何時から営業なんでしたっけ?」
 と続けた。
「ご案内いたします」
 じいさんは言い、ホール担当に案内を引き継いで、去っていった。ご案内いたします、とホール担当も言った。はい、と私は答えた。
 案内されたのはバーカウンターのすぐ横の席だった。私はバーカウンターと席の間に輪郭を置いた。放っておくと倒れそうだったので、片手で支えながら、海の家で使われているような安っぽい椅子に座る。手を離すことは難しそうだった。
 給仕がやってきた。きゅうりのような顔立ちだった。
「いらっしゃいませ」
 きゅうりの給仕は言う。
「焼き野菜と、トマトソースのパスタ」
「トマトソースのパスタはですね、本日ラビオリがございます」
「ラビオリ」
「はい」きゅうりの給仕はにっこり笑う。「ワンタンのようなものを想像していただけますとわかりやすいかと思います」
「ワンタンの中にトマトソースが」
「いえ、ワンタンの中にはチーズとほうれん草が入っております。いくつかのワンタンの、ワンタンではないですねラビオリですね、ラビオリの上にトマトソースがかかっているという形でございます」
「なるほど」
 私はうなずく。
「いかがいたしましょうか」
「それで」
「かしこまりました」
「トマトソースを多めにしていただけますか」
「はい、トマトソース多めですね」
 きゅうりの給仕はうなずいて、去っていく。客席の中を通らずウエイティングスペースの方へ大回りして、キッチンに私の注文を伝えにいった。
 しばらくすると焼き野菜が来た。芯のついたキャベツ、人参、かぶのようなもの、紫の大根に似たなにか、が盛られている。右手は輪郭を支えることで手一杯なので、左手にナイフを持つ。キャベツの芯のきわを切って、芯を端に避ける。ナイフをフォークに持ち替えて食べていく。野菜はフォークにぐさっと刺せばよいので、左手でも食べやすい。一通りたいらげて、最後に芯を食べる。
 次いでワンタンが来た。トマトソースの中に埋もれてワンタンの姿は見えない。きゅうりの給仕が焼き野菜の平たい皿を下げようとしたので、私は手で制した。きゅうりの給仕は、失礼いたしました、と言い、下がっていった。私はトマトソースに指を浸した。しかし輪郭は思い浮かばなかった。私は輪郭を見あげた。近すぎて、大きな輪郭の全体を見ることは難しかった。
 どこかに輪郭を置いて、離れたところから眺めたいと思った。バーカウンターに立てかけるか、ウエイティングスペースのソファに立てかければできるだろうけれど、バーカウンターにはバーテンダーが、ウエイティングスペースには電話をしている人がいた。
 下のフロアならば人がいないはずだった。私は輪郭とボストンバッグを持って立ち上がった。客席の間を、輪郭で道を開きながら歩いていった。客の座っている席にばんばん輪郭はぶつかる。輪郭は避けることができないから、客が椅子を引いたり、空いている席に乗せていた荷物を膝の上に移動させたりして自衛する。私は輪郭の後ろをゆうゆうと歩いた。
客席地帯を抜けて、ワインボトルの入った箱を動かそうとすると、きゅうりの給仕が寄ってきた。
「お客様」
「はい」
「お荷物をお預かりいたしましょうか」
 きゅうりの給仕は、輪郭を、指を揃えた手のひらの先で指し示す。
「大丈夫です」
「左様でございますか」
「はい」
「失礼いたしました」
 折り目正しいお辞儀をしてきゅうりの給仕は数歩下がる。私はワインボトルの入った箱を避けて階段を降りる。今度は私が輪郭よりも先に立った。
 どんどん段の横幅と奥行きが狭くなっていく螺旋階段を私はすいすいと進んでいく。途中からは段の奥行きの都合でかに歩きになる。階段の外側の壁が迫ってくるような感じを覚える。実際に壁は、段の横幅が狭くなるにつれ、はじめの頃よりずいぶん私に近くなっているのだが、現実の近さよりももっと圧迫感がある。私を押してきているような感じすら受ける。私は体を階段の内側に傾ける。輪郭も同じように傾く。このまま引っかかって出てこられなくなるのではないか、と思った頃に階段は終わる。弧を描いた細い通路に出る。通路の一メートルほど下には水が張ってある。そのさらに下に客席がある。百席ほどあるだろうか。明かりが落とされていて、客も給仕もいない。向かう先は、通路が客席側に張り出すような形でカーブしているため、見えない。私はかに歩きで通路を少し進んだ。重く大きな輪郭をうまく制御することができない。通路から輪郭がぐらりと落ちそうになった。私は通路から飛び下りた。ばしゃんと水しぶきが上がる。水は思っていたよりも浅かった。着地することはできたが、足首を軽くくじいてしまった。輪郭を掴む手は離していない。伸ばした腕を見上げる。通路にあやういバランスで乗っている輪郭を、引き下ろしかけて、やめた。水の中に輪郭を落とすのはあまりよくない気がした。輪郭を持ち上げて、持ち上げたまま水の溜まっているところから降り、客席に行って輪郭を下ろすのがよいと思った。通路から輪郭をずらしていく。伸ばした両腕で輪郭を高く掲げる。重さがきつい。輪郭を持った腕がふらふらする。輪郭が客席の方へ傾いた。私は客席のフロアへ飛び降りた。輪郭より私が先に着地して、その後、輪郭が床にずんと落ちた。輪郭を持った手が衝撃でしびれた。
 わあっと声が聞こえた。顔を上げると、客席がすべて埋まっていた。満席だった。ビールの泡が乾杯とともにこぼれ、肉料理にナイフが入り、料理を持った給仕が客席の間をすいすいと行き交っていた。客はみななにかを話していた。それはワインの講釈だったり、職場の愚痴だったり、死ぬ前に食べたいものはなにかといったくだらない内容だったりした。とにかく騒がしかった。レストランというよりは酒場だった。活気のある酒場。いつもこのような感じだっただろうか。私は思い出そうとした。けれど思い出せなかった。このフロアに人がいるのを見たのははじめてだったからである。上の階の熱気とも違うように思ったが、本当に違うのかどうかは定かではなかった。しかし盛り上がっていた。私は輪郭とともに立ち尽くした。どこにも空いている席はなかった。
 痛めた足を引きずりながら、輪郭を持って、フロアを散策した。客席があり、キッチンがある。客席からすこし離れたところに布が垂らされている。めくってみると、奥にドアがあった。私はそのドアを開ける。通路だった。歩いていくと、トイレに出た。便器をはさんで反対側のドアを開けると細い通路だった。眼下に客席が見えた。客席には誰もいなかった。絞ったライトで照らされているだけでとても静かだった。
 私は、輪郭を引っ張りながら、細い通路を慎重にかに歩きした。下の方に見える水面を怖いと思った途端、輪郭がぐらっと傾いた。私は浅く張られた水に飛び降りて、輪郭を通路に乗せたまま支えた。また足をくじいた。輪郭を持ち上げて客席フロアに飛び降りる。着地する。さらに足をくじく。輪郭がどんと床に落ちる。客席のやかましさが戻ってくる。魚と貝を蒸した料理が運ばれていく。大きな口の中に巻いたパスタが飛び込んでいく。満席の客席はにぎやかで、騒がしく、楽しそうで、みなとにかく食べていた。おしゃべりも食べることもどんどんしていた。
 私はあたりを散策した。客席、キッチン、布で隠されたドア、それだけだった。いや、客席ではたくさんの人たちがさかんに飲み食いをしていた。それは私には関係なかった。輪郭をじっくり眺めることのできる場所はなさそうだった。しかも私はトマトソースや皿を席に置いてきたままであった。細い通路を戻って、螺旋階段を上って、トマトソースと皿をとってきて、螺旋階段を降りて、細い通路を歩き、飛び降りて客席フロアに来る、というのは非常に手間に思われた。手間というよりは不可能であった。輪郭を持ったまま細い通路を渡ることは難しいだろう。それに客席に空きがないのだから、取りに戻ったところでプリントゴッコをする場所がなかった。
 いや、床でもいいのか。とにかくトマトソースと皿を得ようと私は思った。
「すいません」
 私は給仕に話しかけた。
「はい」
 給仕はにこやかに振り返る。
「ワンタンをトマトソース多めで」
「ワンタンでございますか」
「はい」
 私は言う。
「あいにく、ワンタンは、扱いがありません」
「ええと」
私は少し考える。
「ワンタンを、トマトソース、多めで」
「申し訳ございません」
 給仕はほんとうに申し訳なさそうな顔をする。
「ワンタンを」
 私は言う。
「ワンタンは、ないのです」
 申し訳なさそうな給仕に私はもう一度言う。
「ワンタンを」
「ワンタンは、ございません」
 私はキッチンへ向かった。
 何人かの給仕が注文を伝えていた。給仕たちの間を縫って私はキッチンに入っていく。厨房はかなり広かった。ぐるりとコンロが並んでいた。とてつもなく大きな冷蔵庫があった。包丁やへらがあちこちに置いてあった。寸胴鍋がいくつもあり、何かを煮込んでいるようだった。
「お客様、こちらはキッチンでございます」
 シェフのひとりが言った。私は寸胴鍋の中身を覗いていった。かたまり肉が煮えている。次の鍋はコンソメのスープのようだ。
「お客様、おやめください」
 体格のいいシェフが私の前に立ちはだかった。私は輪郭でシェフを押しのけた。シェフはよろめいてほかのシェフたちに抱きとめられた。
 こちらの寸胴鍋は貝がたくさん入っている。
「お客様」
「お客様」
「お客様」
 遠くからシェフたちが言ってくる。次の寸胴鍋の中を覗くと空だった。どの寸胴鍋にもトマトソースは入っていなかった。
 私はオーブンを開けて調べた。グラタンのようなものが色よく焼けていた。
「お客様」
 隣のオーブンを開ける。パイが焼かれている。
「お客様、ではないのですか」
 冷蔵庫を開けてみる。肉の塊や魚がどっさり詰め込まれている。深さのある容器を取り出して開けてみる。白いソースだ。トマトソースではない。
「関係者ですか」
 フライパンの中を覗いていく。白身魚が焦げ始めている。
「関係者ではないのですか」
 隣のフライパンではにんにくがオイルの中でよい香りをたてている。
「関係者以外立ち入り禁止です」
 シンクにはフライパンがいくつも水に浸けてある。
「立ち入り禁止です!」
 探すところがなくなってきて、あたりを見ると、業務用冷蔵庫と、オーブントースターが置いてある棚の間に通路があった。私は通路の前に立つ。キッチンのつくりと全く異なる意匠だった。床と天井と壁が、白いようなベージュのような、黄ばんでいるような、微妙な色をしていた。そしてやたらにぼこぼことしていた。通路というよりはトンネル、トンネルというよりは洞窟に近かった。
 私は洞窟に入っていった。後ろからシェフたちの乱暴な声がしたが、洞窟を進むうち、聞こえなくなった。洞窟は薄暗かった。床を踏むとしゃくしゃくと音がした。私は壁の一部を掴んでちぎってみた。しゃり、と音がして簡単に取れた。口に含む。すこし水分が抜けてすかすかになってきているが、りんごであった。一生食べるに困らないくらいのりんごがここにはあった。
 奥へ進んでいくと道が狭くなった。腹這いで進んでいかなくてはならないところへきて、どうしてもつっかえて邪魔になり、私はボストンバッグを置いていくことにした。一方輪郭は案外柔らかく、引っかかることなくうまく形を変えながら、引きずっていくことができた。
 這って進むことしばらくして、広間に出た。狭い道から体をずるりと出す。輪郭を引っ張り出す。輪郭は形状記憶合金のように元の形に戻った。これが元の形であるか、あまり自信がなかった。きっと元の形なのだろう。私は輪郭をその場に置いて、広間に座っている人々に近づいていき、こんにちは、とあいさつをした。みな好意的だった。疲れただろうから、まず風呂に入りなさいと人々は言った。私は好意に甘えることにした。風呂場への道のりはとても簡単だった。振り返ると広間の人々はそこそこににぎやかであった。そのそこそこさがよかった。
 私は浴室のドアを閉めて、服を脱ぎ、湯船に向かった。深い湯船にはたっぷりの湯が溜めてあった。私は湯船に足を入れた。反対の足も入れた。足だけを湯に浸けて、私は立っていた。シャワーを探したが見つからなかった。仕方なく湯に浸かろうとしたが、物足りなさがあった。ミニトマトだ。ミニトマトがないのだ。私は湯船から出て、浴室内を探し回った。しかしミニトマトは見つからなかった。りんごは腐るほどあった。壁のりんごを何片もちぎり取って湯船に入れた。りんごはぷかぷかと湯に浮かんだ。足の裏で押しつけて無理矢理に沈めても、底まで届く前に、するりと足の裏を抜けて浮かび上がってきてしまった。
 湯のたっぷり入った浴槽の中で立ちながら、浮かんだりんごを見ていた。りんごはゆっくりと移動を続けていた。私は湯を大きくかき出して、りんごを湯船の外に捨てた。湯船に腰を沈めると、尻のあたりに違和感があった。尻を上げて見てみると、湯船がわずかに突起していた。私は突起を押しこんだ。りんごでできた湯船は柔らかく、突起はすぐに引っ込んだ。再び湯につかると別の部分の突起が気になった。私は突起を押しこんだ。りんごでできた湯船は柔らかく、突起はすぐに引っ込んだ。
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